[#表紙(表紙2.jpg)] 西村京太郎 十津川警部・怒りの追跡(下) 目 次  第十五章  新たな犠牲者  第十六章  合 同 捜 査  第十七章  交 通 事 故  第十八章  アフリカの砂漠  第十九章  行 方 不 明  第二十章  失われた記憶の中で  第二十一章 警  告  第二十二章 危険への招待  第二十三章 死  線  第二十四章 逃  亡  第二十五章 ソウル─釜山  第二十六章 千年の都・慶州  第二十七章 射  殺  第二十八章 回復への道 [#改ページ]   第十五章 新たな犠牲者      1  十津川は、長井利也と、江崎周一郎の二人を、見張ることにした。  ただ、困るのは、二人が動いても、それだけで、逮捕するわけにはいかないということだった。長井を、前科があるというだけで、拘束するわけにはいかないし、江崎は、その前科すらないのである。  江崎が、アフリカから迎えた男にしても、同じだった。江崎にきけば、星野と同じように、アフリカで、ボランティア活動をしている青年と答えるだろう。  十津川は、江崎が、長井を殺すために、呼び寄せた男と思うのだが、その証拠もない。  従って、彼等が動き出しても、十津川に出来るのは、部下の刑事に、尾行させることだけである。  最初に、動き出したのは、江崎の方だった。  例の青年に、運転させて、ベンツで、箱根の邸を出たのは、翌日の夕方である。  西本と日下の二人が、覆面パトカーで、ベンツを尾行した。  西本が、車についている無線電話で、十津川に、連絡を取った。  ──まっすぐ、東京方面に向っています。 「四谷のAホテルに行くようだったら、注意してくれ」  と、十津川は、いった。  ──長井は、動きませんか? 「若原刑事と、田中刑事が、行っているが、今のところ、長井は、Aホテルに籠《こも》ったままだ」  ──今、用賀に着きました。  江崎のベンツは、用賀から、渋谷、谷町インターチェンジと、走る。  尾行している西本と、日下は、緊張した。このまま進めば、Aホテルに行きかねないからである。  だが、霞ヶ関ランプから出ても、ベンツは、Aホテルには向わず、桜田門から、祝田橋に向う。  江崎の車が着いたのは、銀座だった。  すでに、午後八時に近く、銀座は、ネオンによって、美しく、彩られている。  江崎は、運転して来た若者の肩を抱くようにして、雑居ビルの三階にある「ピゴット」というクラブに、入って行った。いかにも、高そうな店である。西本が、一人で、入って行き、ビールを一本だけ飲んで、それとなく、二人の様子を見て、出て来た。 「江崎が、よく来る店らしくて、例の青年を、ママや、ホステスに紹介していたよ。アフリカから何ヶ月ぶりかで帰って来たといってね」  と、西本が、外で待っていた日下に、小声で、説明した。 「裏口は?」 「あるが、三階の廊下に出るだけで、外には、階段かエレベーターを使わなければ、出られないよ」 「じゃあ、車で、待っていよう。二人が出て来ればわかる」  と、日下が、いった。  二人の刑事は、ビルの真向いにとめた車に戻った。ここなら、出て来る江崎たちを見張るには、絶好である。  時間がたつが、二人は、なかなか、出て来ない。午後十一時を過ぎて、やっと、出て来た。が、用心深く、顔を隠すようにして、素早く、ボーイが廻しておいたベンツに乗り込むと、すぐ、走り出した。  西本たちは、あわてて、尾行に移った。ベンツは、首都高速に入ると、スピードをあげた。  箱根の別荘には、向っていない。  ──車は、羽田に向っています。  と、西本は、十津川に、報告した。 「羽田? 羽田から、アフリカ行の国際線は、飛んでいないだろう? 第一、この時間じゃ、国内線も、もうない筈だよ」  ──確かに、そうなんですが、このまま走れば、羽田空港です。 「しっかり、見定めてくれよ」  と、十津川は、いった。      2  四谷のAホテルに泊っている長井の方は、全く、動きがない。閉じ籠ったままである。  江崎のベンツを尾行している西本たちから、続いて、連絡が入った。  ──空港の近くに車をとめて、何もせずにいます。 「何もしないって、どういうことだ?」  ──二人とも、車内にいて、動きがありません。空でも見上げているんじゃありませんかね。車内灯がついてないんで、何ともいえませんが。 「江崎と、若者は、間違いなく、車の中にいるんだろうね?」  ──それは、間違いありません。車の周囲には、何もありませんから、外へ出れば、わかります。 「星は見えるかね?」  ──星ですか? 今夜は、きれいに見えますが。 「それなら、君のいう通り、星でも見ているのかな」  ──そうかも知れませんが。 「引き続いて、様子を見ていてくれ」  と、十津川は、いった。  亀井が、首をかしげて、 「妙な具合ですね」  と、十津川に、声をかけてきた。 「まさか、アフリカ帰りの青年が、日本の夜空を見たいというので、わざわざ、羽田へ連れて行ったとは、思えないんだがねえ」 「武器の取引きじゃありませんか?」  と、亀井が、いった。 「武器のねえ」 「そうです。江崎が、殺人の黒幕なら、例の狙撃銃を、どこかで、手に入れている筈です。自衛隊でないようですから、恐らく、アメリカ軍でしょう。今夜、その武器を、羽田で、取引きするんじゃありませんか?」 「しかし、アメリカ軍から買うんなら、羽田でなくて、厚木の基地辺りへ行くんじゃないのかね?」 「確かに、その通りですが、私には、他に、江崎が、羽田へ行った理由が想像つきません」  と、亀井は、いった。 「とにかく、西本刑事たちの連絡を待とう」  十津川は、慎重に、いった。  その西本から、次に連絡があったのは、午前二時近くだった。  ──ベンツが動き出しました。 「そこにとまっている時は、何もなかったんだな?」  ──ありません。二人に近づいた人間もいませんし、二人は、一歩も、車の外に出ていません。 「向うの車に、電話はついているんだろう?」  ──ついています。 「それを使って、何処《どこ》かへ連絡したとか、逆に、車に、電話が掛ったということは、ないかね?」  ──それは、わかりません。何しろ、車内は、暗くなっていますから。 「今、何処だ?」  ──第一京浜を、西に向って走っています。 「西に? 東京に戻るんじゃないのか?」  ──このまま走ると、戸塚ですね。ああ、今、戸塚を通過しました。いぜんとして、西に向って、走っています。長井の方は、動きませんか? 「動きはない。Aホテルにいるよ」  と、十津川は、いった。  更に一時間たつと、江崎のベンツは、大磯を過ぎて、国府津に近づいていると、西本は、連絡してきた。 「どうなってるんだ?」  十津川は、地図に眼をやって、首をかしげた。  十津川は、江崎が、長井を殺すために、アフリカから、若い男を呼び寄せたと思っている。それなのに、江崎は、長井のいるAホテルとは、離れた地点を、その青年に運転させて、走っているという。 「そのまま行けば、熱海じゃありませんか。アフリカ帰りの青年を、日本の温泉に連れて行くつもりなんですかねえ?」 「慰労のためにかね?」 「ええ」 「そんなことのために、江崎が、アフリカから、男を、呼び戻したとは、思えないんだがねえ」 「その点は、私も、同感ですが──」  十津川も、亀井も、疑心暗鬼で、江崎の動きを見守っていた。熱海方向に行くと見せて、何処かで、突然、引き返すのではないかと思ったのだが、夜明け近くなって、江崎たちの車は、熱海から、伊豆半島を南下し、伊東に入ったと、西本が、連絡してきた。  ──今、伊東のYホテルに着きました。どうも、このホテルに泊るようです。 「間違いなく、江崎と、アフリカ帰りの青年なんだろうね?」  ──間違いありません。 「しかし、銀座のクラブで、すりかわったことだって、考えられるんじゃないのか? 江崎は、当人としても、青年の方は、クラブのボーイが、服を取りかえて、なりすましているのかも知れないぞ」  ──その点は、私も、心配なので、しっかり、確認しています。すりかわったということは、ありません。ああ、今、二人が、ホテルに入りました。フロントで、手続きをしていますが、若い男は、ひどく、嬉しそうです。アフリカでの疲れを、この温泉で癒《いや》すんじゃありませんかね。 「江崎に、そんな余裕はない筈なんだが──」  と、十津川は、また、首をかしげてしまった。  午前八時になって、今度は、四谷のホテルに泊っている長井が、急に動き出した。田中と、若原の二人の刑事が、長井が、ホテルを出ると、連絡してきたのである。  ──今、タクシーに乗り込みました。尾行します。 「ひとりか?」  ──そうです。連れはありません。 「様子は、どんなだ?」  ──遠眼ですが、あわてているように見えます。 「何処へ行くか、しっかりと、見届けてくれ」  と、十津川は、念を押した。  田中と、若原が、尾行している間に、十津川は、Aホテルに電話を掛け、長井に、外から電話が、掛らなかったかどうか、聞いてみた。 「今朝早く、電話がございました」  と、フロント係が、いった。 「男ですか? 女ですか?」 「男の方でした。名前は、おっしゃいません。年齢は、ちょっとわかりませんね。多分、若い男の方だとは、思いましたが」 「そのあと、長井は、チェック・アウトしたんですね?」 「そうです。急に、チェック・アウトしたいとおっしゃったのです」 「予定では、今日、出発することには、なっていなかったんですか?」 「はい。あと一週間、お泊りになることになっていました」  と、フロント係は、いった。  やはり、何者かが、電話で、呼び出したのだ。  しかし、江崎も、アフリカ帰りの若者も、今は、伊東のホテルである。 (連中が、伊東へ呼び出したのだろうか?)  しかし、長井の尾行に当っている田中と、若原の二人からは、彼を乗せたタクシーが、静岡とは、逆方向の千葉方面に向っていると、連絡してきた。  どうやら、成田へ行くらしい。  長井のタクシーは、東関東自動車道に入り、まっすぐ、成田に向っているからである。 「海外へ逃げ出す気かな?」  と、十津川は、地図を見ながら、亀井に、きいた。 「江崎たちが、伊東に行っている間に、長井は、海外へ逃げる気かも知れません」 「誰かが、江崎の動きを、長井に知らせて、早く逃げろと、いったのかも知れないな。長井にも、仲間が、いるだろうから」 「海外へは、逃がせられませんよ」  と、亀井が、いった。  十津川は、「その通りだよ」と、肯《うなず》き、覆面パトカーの田中を、呼び出した。 「今、何処だ?」  ──間もなく、成田インターチェンジです。 「長井が、もし、海外へ逃げようとしたら、何としてでも、奴を、逮捕しろ。理由は、何でもいい。押さえておいて、連絡してくれ。私も、すぐ、そっちへ行く」  ──今、成田インターから、出ようとしています。間違いなく、行先は、成田空港です。 「今のこと、頼むぞ」  と、十津川は、いった。      3  長井を乗せたタクシーが、出発側のタクシー降り場に着いた。 「やはり、海外へ逃げる気だ」 「確認したら、その場で、拘束しよう」  と、田中と、若原の二人が、いい合せて、自分たちも、車から降りかけた時だった。  タクシーを離れた長井が、警戒するように、周囲を見廻したが、突然、弾かれたように、仰向けに倒れたのだ。  丁度、ジェット旅客機が、低空で、入って来たときで、その音が大きく、田中は、まるで、音の消えたテレビでも見ている感じだった。  だが、倒れた長井は、動かない。田中と、若原は、駈け寄った。  仰向けに横たわった長井の胸から、血が噴き出し、ワイシャツを染め、上衣を、染めていた。 「射《う》たれているぞ!」  と、田中が、叫び、若原は、拳銃を抜き出して、周囲を見廻した。 「誰か、救急車を呼んでくれ!」  と、田中が、また、叫んだ。  救急車が、五分後にやって来て、長井を、近くの病院に運んだ。すぐ、手術が、行われ、体内から、弾丸を摘出した。が、その手術の途中で、長井は、死亡した。  田中は、病院から、十津川に、長井が、死亡したことを、電話した。 「今、空港の警官たちが、現場周辺を、調べています」 「狙撃されたのか?」 「そうです。弾丸は、心臓に命中していました。サイレンサーが使われたのか、それとも、ジェット機の爆音のせいか、銃声は、聞こえませんでした」 「射たれたのは、一発だけか?」 「そうです。一発だけですが、心臓に命中したあと、内部で破裂し、心臓を引き裂いていたそうです。あの弾丸に狙われたら、まず助かりませんね」 「どこから狙ったか、わからないのか?」 「私は、長井と一緒に、この病院に来てしまったので、その後の捜査は、わかりません。しかし、そう離れた場所からではないと思います」  と、田中は、いった。 「それにしても、一発で殺すというのは、弾丸に細工がしてあっても、大した腕だね」 「射撃のプロだと思います」  と、田中は、自分の感想を、いった。 「それに、犯人は、タクシー降り場の近くで、長井を待ち伏せしていたことになるね?」  と、十津川が、いう。 「そうです。降りてすぐ、射たれました」 「つまり、犯人は、長井が、来ることを知っていたんだ」 「そう思います」 「何かわかったら、すぐ、知らせてくれ」  と、十津川は、いった。  十津川は、電話を切ると、伊東のホテルにいる西本たちに、連絡を取った。 「成田で、長井が射殺されたよ。江崎たちは、間違いなく、そちらに、いるんだろうね?」  と、十津川が、きくと、西本は、長井が殺されたことに、驚きを示しながら、 「間違いなく、二人とも、このホテルにいます。ああ、今も、中庭を、二人で歩いていますよ」  と、いった。 「わかった。江崎に電話が掛って来ないかどうか、確かめておいてくれ。成田で、長井が射殺されたとなると、江崎は、それを、知りたいだろうからね。必ず、連絡するか、犯人から、連絡してくる筈だ」  と、十津川は、いった。  十津川は、電話をすませると、亀井に向って、口惜しそうに、 「間違えたよ」 「何がですか?」 「江崎は、アリバイ作りに、伊東へ行ったんだ。アフリカ帰りの若者に、日本の温泉で、疲れを癒させるという名目でね」 「それなら、成田で、長井を射殺したのは、誰なんですか?」 「江崎が、われわれに、いったことがあるじゃないか。自分は、何人、何十人も、アフリカで、ボランティアをしている若者を、世話しているとね。われわれが、成田で、アフリカ帰りの若者を一人見つけたが、そのあとで、もう一人、帰って来ているんだよ。そいつが、長井を殺したんだ」 「もう一人ですか」 「そうさ。江崎が、わざわざ迎えに行ったのは、われわれの注意を引きつけておくための芝居だったのかも知れない。それで──」 「ちょっと、待って下さい」  と、亀井が、難しい顔で、口を挟んだ。 「何だい? カメさん」 「そんなに沢山、射撃のプロが、いるもんでしょうか?」 「その疑問は、当然だが、それがいるんだよ。いるからこそ、江崎は、悠々と、伊東で、アリバイを作っていられるんだ」 「しかし、警部。江崎は、別に、軍隊を持っているわけじゃないでしょう?」 「軍隊か」  と、十津川は、呟《つぶや》いてから、 「ひょっとすると、彼は、軍隊を、持っているのかも知れないよ」 「この平和国家日本でですか?」 「ああ、そうだ」 「しかし、自衛隊以外に、考えられませんが」 「その通りだ。だが、自衛隊は、関係ないと、思っている」 「すると、江崎は、若い者を集めて、アフリカで、射撃訓練でもさせているというわけですか?」 「それは、わからないが、アフリカに、何かあることだけは、確かだよ。魚の養殖をしているんじゃないことは、間違いないと、思っているんだ」  と、十津川は、いった。 「アフリカへ、行かなきゃいけませんね」 「しかし、やみくもに行っても、あの広い所で、どう調べたらいいかわからんよ」 「どうしますか?」 「江崎が、アフリカに行く時に、ついて行きたいと思っているんだがね」  と、十津川は、いった。 「もし、彼が、動かなかったら、どうしますか?」 「彼の部下が、犯人であることを、何とかして、証明してみせるよ。それに、江崎が、例の狙撃銃を、手に入れている証拠もだよ」  十津川は、自分にいい聞かせる調子で、いった。 「箱根の江崎の邸を、調べてみますか?」 「家宅捜索の理由は、何にするね?」 「そんなものは、何とでも、つくんじゃありませんか」  と、亀井が、いった。  十津川は、苦笑して、 「カメさんも、過激なことをいうんだね」 「銃は、あの邸に隠してあるに決っています。それを、アフリカ帰りの若者に渡して、殺させているんですよ」 「私も、そう思うが、今もいったように、家宅捜索の理由がない。江崎が、全ての黒幕だと思うんだが、証拠がないからね」 「彼は、今、伊東で、のんびり、温泉につかっています。その間に、あの邸に、忍び込んだら、どうでしょうか?」  と、亀井が、いった。 「おい、おい。空巣の真似は、まずいよ」  十津川は、笑いながら、いった。 「しかし、警部だって、あの邸の中に、武器が隠されていると、思われるんでしょう?」 「そうだね。他には、考えにくいね」  と、十津川も、笑いを消して、いった。  十津川は、そのまま、考え込んでいたが、 「箱根へ行ってみよう」  と、急に、いった。 「忍び込みますか?」 「まさか。江崎が、伊東へ行っているのは、知らないことにして、訪ねてみようじゃないか。誰が、応対に出て来るかも知りたいからね」  と、十津川は、いった。 「それは、面白いかも知れませんね」  亀井も、賛成して、二人は、車で、江崎邸を、訪ねることにした。  江崎邸の近くまで来た時、タクシーが、追い越して、江崎邸の前で、とまるのが、見えた。  タクシーから降りて来たのは、若い女で、十津川は、その顔に、見覚えがあった。  伊原と関係があると思われる、あの野崎裕子だった。亀井も、すぐ、気付いて、 「ここで、彼女を見るのは、二度目ですね」  と、小声で、いった。  彼女が、邸の中に消えるのを見定めてから、十津川たちも、車を降りて、インターホンを鳴らした。  最初、江崎は、留守だと断わられたが、十津川が、強くいうと、やっと、奥へ通された。  応対に出たのは、二十五、六歳の若い男だった。陽焼けした、精悍《せいかん》な顔付きをした若者だった。 (この男が、長井を、射殺したのだろうか?)  と、十津川は、思いながら、 「お名前を、聞かせて貰えませんか」  と、いった。 「僕のですか?」 「そうです」 「なぜです? 僕は、今、江崎社長の居候《いそうろう》みたいなものです。警察の方が、その僕に、用があるとは、思えませんがね」 「まあ、そういわずに、教えて下さい」  と、十津川は、笑顔で、いった。 「木原大助です」  と、男はいい、テーブルの上に、名前を、指で書いて見せた。 「大助? いい名前ですね」  亀井が、いった。 「いや、今のところ、名前負けしています」  木原は、謙虚に、いった。 「あなたも、アフリカへ、行っておられたんですか?」  と、十津川は、きいた。 「前には、海外協力隊員として、行っていましたが、今は、社長のところで、働いています」 「最近、アフリカから、二人、帰国したんじゃありませんか?」 「二人?」 「そうです。二人です。こちらで調べたところ、ここ二、三日の中《うち》に、アフリカから、二人の若者が、帰国しているんですよ。いずれも、江崎社長が、可愛がっている若者です。あなたなら、その二人の名前を、知っているんじゃないかと、思うんですがね」 「彼等が、何か、刑事事件を起こしたんですか?」  と、木原は、きく。 「自動車事故を起こした疑いが、持たれています」 「自動車事故?」 「そうです。通行人をはねて逃走したんですが、運転していたのは、陽焼けした二十代の若い男で、箱根方面に逃げたということでしたのでね」 「それは、うちの人間じゃありませんよ。アフリカから帰ると、日本の道路は、車が多くて、怖くて、運転できないと、いいますからね」  と、木原は、笑った。 「やはり、二人の若い人が、帰国していたということですね?」 「何のことです?」 「うちの人間といわれたからですよ。ここに、二人か、それ以上の青年が、アフリカから、一時、帰国しているということでしょう?」  と、十津川が、いうと、木原は、手を振って、 「そんなことは、いっていませんよ。うちの社長は、アフリカへ行っている若者たちの良き理解者でしてね。それに甘えて、しょっ中、出入りしているんです。まあ、帰国した時のホテル代りに、この家を使っているといってもいい。ですから、社長も、今、何人、アフリカから帰国して、遊びに来ているか、わからないんじゃありませんかね」 「すると、二人が、帰国している可能性もあるわけですね?」  十津川は、いつになく、しつこく、きいた。 「僕にも、わかりません。社長にも。そういった筈ですがね」 「さっき、N興業の社長秘書の野崎裕子さんが、ここへ入るのを目撃したんですが、彼女は、何をしに見えたんですか?」  と、亀井が、きいた。  木原は、亀井に、眼を移して、 「野崎さんも、交通事故の容疑者ですか?」  と、皮肉を、いった。 「いや、覚醒剤売買の疑いが、持たれています」  十津川が、強い声で、いった。  木原は、眼を大きくして、十津川を、見返してから、 「そんなことは、あり得ませんよ」 「それなら、ここへ、何をしに来たのか、教えて貰えませんかね」 「N興業の社長と、うちの社長は、仲がよくて、親しく、交際しています。社長秘書の野崎さんは、N興業の社長の伝言を持って来られたんですよ」  と、木原は、いった。  十津川は、眉を寄せて、 「伝言を、わざわざ、秘書が、届けて来るんですか?」 「そうです。いけませんか?」 「電話ですむんじゃありませんか?」  と、十津川は、きいた。 「大事な伝言だからでしょう。僕は、くわしいことは、知らないんですよ」 「N興業の社長は、何といいましたかね?」 「栗田周造さんですが──」 「江崎さんとは、どう親しいんですか?」 「そういうことは、うちの社長か、栗田さんにきいてみて下さい」  と、木原は、そっけなく、いった。 「栗田社長も、アフリカへ行っている若者の良き理解者なんですか?」  と、亀井が、きいた。 「それも、わかりません」  と、木原が、いった時、応接室の電話が鳴った。  木原は、受話器を取ったが、すぐ、切ると、十津川に向って、 「今、野崎さんが、お帰りになりますよ。尾行でも、されますか?」  と、皮肉を、いった。 「それは、遠慮しておきましょう」  と、十津川は、笑ってから、 「木原さんは、アフリカで、どんなことを、されていたんですか?」 「僕は、農家の出でしてね。教えられることは、一つしかありません。農業指導を、していましたよ」 「どのくらいの間ですか?」 「僕も、何かの事件の容疑者になっているんですか?」  と、木原が、きき返した。 「いや、私は、ただ、アフリカのことに、興味がありましてね」 「話を聞いただけでは、アフリカは、わかりませんよ」 「そうでしょうね。私たちも、一度、アフリカへ行って、みなさんが、どんな活躍をされているか、この眼で見たいと、思っていますがね」  と、十津川は、いった。 「ぜひ、見て頂きたいですね。きっと、日頃の怠惰《たいだ》な生活を、反省させられますよ」  木原は、まじめな顔で、いった。  十津川と、亀井は、表面上、これといった収穫もなく、江崎邸を出た。 「野崎裕子が、社長の伝言を届けに来たなんて、信じられませんよ」  と、車に戻ってから、亀井が、眉をひそめて、いった。 「他の何かを、届けに来たんだと思うね」  と、十津川は、いった。 「何ですか?」 「例えば、現金さ」  と、十津川は、いった。 「少しずつ、事件の構図が、見えてきたようだ。川西は、どこか外国から、覚醒剤を、日本に、持ち込み、伊原をはじめ、塩谷洋や、長井利也、さらには野崎裕子に、宅配便を使って、送っていた。受け取った人間は、それを売り捌《さば》き、その代金を、江崎に、届けていたに違いない。今日の野崎も、この金を、持ってきたのさ。問題は、覚醒剤が、どこからきているかということと、江崎が、その金を、何に使っているかだ」  捜査本部に戻ると、函館から、客が来ていた。 [#改ページ]   第十六章 合 同 捜 査      1  客は、函館新聞の長谷部記者だった。久しぶりの再会である。  清水刑事は、死んでしまったが、とにかく、函館では、彼を助けてくれた人なのだ。 「捜査の方は、進展していますか? あまり、新聞に、のりませんが」  と、長谷部は、十津川の顔を見るなり、きいた。 「ある人物を追っているんですが、今の段階では、そのことを、発表できないのですよ」  十津川は、そんないい方をした。 「と、いうことは、余程の大物なんですね?」 「ある意味では、その通りです」 「例の伊原要一郎は、こちらで、杉野代議士の秘書になっているようですね」 「そうです」 「彼が、今度の事件に、どう関係しているのか、わかりましたか?」  長谷部は、新聞記者らしい、単刀直入なきき方をした。 「関係があることは間違いありませんが、伊原が、事件全体の中で、どんなパートを受け持っていたのか、或いは、今も受け持っているのかが、わかりません」 「どうやら、難しいことになっているみたいですね」 「捕まえて、ぶん殴って、自供させればいいんなら簡単なんですがね」  と、十津川は、苦笑した。  十津川は、話題を変えて、 「ところで、上京された目的は、何ですか? まさか、私に、その後の事件のことをききに来られたんじゃないでしょう?」 「しばらく、韓国へ行くので、お別れのあいさつに寄ったんです」 「韓国へ、何しに?」  と、亀井が、きいた。 「それも、警察に関係があることなので、お寄りした理由なんですよ。例の川西茂男ですが、何回か、韓国に行っていたことが、わかったんです。彼が売り捌《さば》いていた覚醒剤は、ひょっとして、韓国から密輸したものじゃなかったのか。最近、日本の暴力団が、韓国に渡って、向うで、覚醒剤を、精製し、それを、日本に密輸しているという話を聞いたんです。それが、事実かどうか、調べて来いと、デスクにいわれましてね。二週間ほど、向うへ行っています。何かわかったら、お知らせしますよ」  と、長谷部は、いった。 「わざわざ寄って頂いて、感謝しますよ」  十津川が、礼をいうと、長谷部は、笑って、 「正直にいいますとね、わざわざでもないんですよ。韓国へ行くのに、関釜連絡船を使うことにしたんです」 「ほう」 「函館から、福岡行の飛行機がないんで、東京を経由することにしたので、ついでに、寄ったんです」 「関釜連絡船に乗ると決めたのは、なぜなんですか?」  と、亀井が、きいた。 「今は、飛行機で行くことが多いので、一度、船で、行ってみようと、考えたのが一つと、もう一つは、川西茂男が、時々、船を利用していたという噂を聞いたからです。ひょっとすると、覚醒剤を、船を利用して、運んでいたのではないかと思ったわけです」  と、長谷部は、いった。 「あまり無理なことはしないで下さい」  と、十津川は、いった。  長谷部は、笑顔になって、 「大丈夫です。僕は、怖がりですから」  と、いった。      2  長谷部は、時間を気にしながら、捜査本部を出て行った。関釜連絡船の出航時間が、気になっていたのだろう。 「韓国ですか」  亀井が、長谷部を見送ってから、ひとりごとのように、いった。 「アフリカに、韓国、やたらと、外国が関係してくるね」  十津川も、ひとりごとみたいに、いった。簡単に捜査できない場所に、事件が広がって行くことに、当惑しているのだ。  海外だけでなく、今度の事件は、ここまででも、広域化している。函館で始まり、東京に来たが、長井が、殺されたのは、千葉県の成田である。千葉県警との合同捜査ということになっている。  千葉県警では、成田警察署に、捜査本部を設け、担当は、日野という三十代の警部になった。  十津川は、この日野に、今までの捜査について、説明した。  ただ、長井殺しについては、あくまでも、千葉県警の所轄だから、空港周辺の聞き込みは、向うに、委《まか》せるより仕方がない。  長井が、とまっている車から狙撃されたことは、間違いないのだが、県警の聞き込みでは、まだ、特定されていなかった。  白のマークII、白のベンツ、それに、車種のわからない大型の茶色い車、その三つの中《うち》のどれかではないかといった、あいまいなことしか、まだ、出ていないのである。  長井が、狙撃された直後に、走り去った車を、県警は、追っているのだが、きちんとした答が出ていないというところである。それを、十津川たちが、いらいらしても、始まらない。  長谷部と、別れた翌日になって、千葉県警の日野警部から、連絡が入った。 「犯人の使った車が、特定できそうです」  と、日野は、弾んだ声で、いった。 「車が、見つかったんですか?」 「前に申し上げた三つの車の一つが、見つかりました。空港から一キロほど離れた場所に、放置されていたんですよ。白いトヨタマークIIです。盗難車でした。犯人は、恐らく、自分の車に乗りかえて、逃げたものと、思います」 「その盗難車が、犯行に使われたという証拠は、ありますか?」 「断定は出来ませんが、このマークIIが、犯行時に、空港の出発ロビーの前にとまっていたことは、間違いありません。目撃者は、ナンバープレートの数字を、二つだけ覚えていたんですが、盗難車のプレートにも、同じ数字が、二つあるからです」 「なるほど。それで、車内から、何か発見されましたか?」  と、十津川は、きいてみた。 「今、綿密に調べていますが、犯人は、手袋をはめていたとみえて、ハンドルなどから、指紋は検出されていません。ただ一つだけ、面白いものが、見つかりました」 「薬莢《やつきよう》ですか?」 「いや、それは、見つかっていませんが、運転席の床に、煙草の灰らしいものが、落ちているのが見つかりました」 「灰から、煙草の種類が、わかりますね?」 「ええ。今、それをやっていますが、どうやらその煙草は、フランス製らしいんですよ。それが、どういう意味を持つのかわかりませんが、アメリカ煙草を吸う人間は多いですが、フランス煙草というのは、少いと思います」  と、日野は、いった。 「その通りです」 「今度の事件と、フランスとは、何かつながりがありますか?」  と、日野が、きく。 「今のところ、これといった関係はないと思いますが──」  と、十津川は、いった。が、電話が、切れてから、彼は、アフリカのことを考えた。  アフリカには、昔、フランスの植民地が多かったから、今でも、フランス文化が、浸み込んでいるのではあるまいか。とすれば、フランス煙草が、売られているかも知れない。  星野も、木原も、アフリカから、帰国した。もし、二人のいたところが、昔、フランスの植民地だった国とすると、向うでフランス煙草を、吸っていたかも知れない。いや、それどころか、フランス煙草を、持ち帰った可能性もある。  十津川は、江崎の別荘で会った木原大助のことを、思い出そうと努めた。 (あの時、彼は、煙草を吸っていただろうか?)  彼の話ばかり、気にしていたので、彼の動作を覚えていないのだ。 「カメさん」  と、十津川は、呼んで、 「江崎邸で会った木原大助だがね。彼、煙草を吸っていたかね?」 「吸っていましたよ」  と、亀井は、あっさり答えた。 「カメさんは、よく覚えているね」 「私は、若い人が煙草を吸うのって、好きじゃないんです。それで、気になったんです。まあ、あの男は、遠慮がちに吸っていましたがね」 「その煙草の銘柄はわからないかね? フランスの煙草じゃなかったろうか?」 「それが、大事なことですか?」 「ああ、何とか、知りたいんだが──」 「それなら、私が、もう一度、箱根へ行って、あの青年に会って来ますよ。そして、煙草を一本、貰って来ます」 「大丈夫かね?」 「とにかく、行って来ます」  あっさりいって、亀井は、出かけて行った。  彼が、出てすぐ、長谷部から、電話が、入った。 「今朝早く、釜山に着きました」  と、長谷部は、いった。 「例の関釜連絡船で、行ったんですか?」 「そうです。沖へ出てから、ちょっとゆれましたが、快適でしたよ。毎日のように、この船で、日本と韓国の間を往復している人が、何人もいるんですよ。海峡をまたぐ担ぎ屋さんみたいな人たちです。驚きました」 「これから、どうするんです?」 「釜山、ソウルを歩き廻って、川西茂男の足跡を、探します。何かわかったら、連絡しますよ」  と、長谷部は、いった。 「気をつけて下さいよ。そちらには、日本の暴力団も、沢山行っているようですからね。覚醒剤ルートを調べているとわかると、狙われる恐れがありますからね」 「わかっています。とにかく、清水刑事のためにも、頑張りますよ」  と、長谷部は、いった。そのいい方に、十津川は、かえって、不安を覚えた。 「あまり、張り切らないで下さいよ」  と、十津川は、いった。が、長谷部は、 「大丈夫ですよ。予算が少いので、もう切ります」  と、いって、電話を切ってしまった。 (大丈夫だろうか?)  十津川は、改めて、不安になった。覚醒剤の売買に関係した人間が、次々に、殺されている。  国外なら大丈夫だという保証は、何処にもないのだ。  夜おそくなって、亀井が、帰って来た。 「貰って来ましたよ」  と、いって、亀井は、フランス煙草一箱を、十津川の前に、置いた。 「よく、手に入ったね」  十津川が、感心していうと、亀井は、 「それが、なぜか、相手は、全く、無警戒でしてね。この新しい箱は、木原が、くれたんです」 「くれた?」 「ええ。話していて、木原が、煙草を吸い出したので、どこの煙草だときいたら、フランス煙草で、よかったら、差し上げますよといって、わざわざ、奥から、新しいものを、一箱、持って来て、私に、くれたんです」 「しかしなぜ、そんな風に、無警戒なのかね?」  と、十津川は、改めて、亀井に、きいてみた。 「それが、いくら考えても、わかりませんでしたね。犯人じゃないからかも知れないと思ったくらいです」  と、亀井は、いう。 「いや、長井を射《う》ったのは、木原だよ」  と、十津川は、強い調子で、いった。 「だから、余計、わからないのですよ」 「自分の吸っている煙草の銘柄ぐらいわかっても、どうということもないと、思っているのかね」 「そうですね」 「フランス煙草について、何かいっていたかね?」 「アフリカで働いていると、煙草を吸うぐらいしか、楽しみがないので、ヘヴィ・スモーカーになったと、笑っていましたね」 「酒は、飲まないのだろうか?」 「それも、きいてみましたが、アルコールはやらないと、いっていました」 「煙草は、フランスものしかないところなんだろうか?」 「いや、現地で生産されている煙草もあるらしいんですが、自分の口に、合わないので、もっぱら、フランス煙草を、吸っているんだと、いってましたね」 「そんな話もしたのかね?」 「ええ。煙草の話は、全く、無警戒にしてくれましたよ」  と、亀井は、いった。 「成田で、狙撃した時、車の中で、煙草を吸っていたのを、忘れてしまっているのだろうか?」 「いや、そうは、思えませんね。わかったって、平気だと考えている感じに、私は、受け取りました。全体に、話し方は、自信にあふれていますよ。自分のやっていることに、自信というか、信念を、持っているという感じですね」  と、亀井は、いった。 「そういえば、星野も、穏やかな喋《しやべ》り方だが、自信にあふれていたねえ」  十津川は、思い出しながら、いった。あれは、いったい、何なのだろう? 「江崎周一郎は、覚醒剤に関係しているが、アフリカ帰りの青年たちは、無関係だからかも知れませんね」 「しかし、あの二人は、間違いなく、塩谷と、長井を、射殺しているんだ。人間を、殺しているんだよ」  と、十津川は、いった。 「そうなんですよ。それが、全く、心の傷になっていないのが、不思議で、仕方がありません。精神異常の殺人者というのは、そんな面がありますが、あの二人は、精神異常でもありませんしね」 「少くとも、アフリカで、魚の養殖をやっている青年じゃないね」  と、十津川は、いった。 「そうです。恐らく、いつも、銃を射っているんじゃありませんかね。銃を射つことに慣れている人間ですよ」  と、亀井が、いった。 「今、思い出したんだが、アフリカには、フランスの外人部隊がいたね。それに、日本人の若者が、何人も参加しているという記事を、読んだことがあるんだ」  と、十津川が、いうと、亀井も、肯《うなず》いて、 「実は、私も、同じことを考えたんです。しかし、フランスの外人部隊に入っている人間は、自由に、日本に帰って来たりは、出来ないんじゃありませんか?」 「そうなんだよね。だから、余計に、考えてしまうんだが」  十津川は、また、考え込んでしまった。  フランス煙草の方は、いい結果が出た。例の盗難車の運転席で見つかった煙草の灰と、亀井が持って来た煙草は、同じものだった。  もちろん、だからといって、これだけで、木原を、長井殺しの犯人として、逮捕することは、出来ない。  木原が、盗難車に乗っていた証拠もないし、第一、肝心の凶器である銃が、見つからないのだ。  三日後、韓国に行った長谷部から、絵ハガキが、届いた。有名なソウルの南大門の写真の絵ハガキである。 〈何とか、尻尾をつかみかけています。  成果を期待して下さい。 [#地付き]ソウルにて、長谷部〉  それだけが、書いてあった。 「なかなか、頑張っているじゃありませんか」  と、亀井が、絵ハガキを見て、いったが、十津川は、 「どうも、私は、心配だよ。少し張り切りすぎているんじゃないかね」  と、いった。 「彼は、ひとりで、行っているんでしょうか?」 「そんな感じだね。それも、心配の理由の一つなんだ。二人ぐらいで、取材に行っているのなら、少しは、安心なんだが」  と、十津川は、いった。  江崎周一郎の方は、その後、伊東から帰って来たが、これといった動きは、見せていなかった。  木原は、江崎の別荘に落ち着いていたが、四日目に、成田から、飛び立って行った。  十津川たちは、それを、指をくわえて、見守るより、仕方がないのである。  十津川は、星野と木原が、塩谷と長井を、射殺したと、確信しているのだが、確信だけでは、逮捕することは、出来ない。  また清水刑事が、この組織に、接触しようとして、殺されたことも、間違いない。しかしそれもまた、想像にしかすぎない。  十津川は、やり場のない怒りを、感じた。あるいはそれは、自分の無力さに対する、怒りだったかもしれない。  それでも、十津川は、亀井と、成田空港に出かけて行き、木原が、アフリカに旅立つのを見送った。何か、見つかればという、淡い期待を持っていたが、成田空港で見たのは、木原と、それを見送る江崎の姿だけだった。  江崎は、素早く、十津川たちを見つけて、カイロ行のエジプト航空865便が出発したあと、声をかけて来た。 「今日は、誰を、見送りに来られたんですか?」  と、江崎は、皮肉な眼をした。十津川は、その質問には、答えず、 「星野さんに続いて、木原さんも、アフリカに、戻ったんですか?」  と、きき返した。 「ええ。向うで、大きな仕事がありますから、いつまでも、日本での休暇を、楽しんでいるわけにも、いかんのですよ」 「アフリカでの大きな仕事というのは、どんなことなんですか?」 「もちろん、ボランティアの仕事ですよ。現地の人たちに、農業を教えたり、井戸の掘り方を指導したりと、いくらでも、ありますからね」 「信じられませんね」  と、十津川は、いった。 「なぜです?」 「あの二人は、そんな感じじゃありませんからね」  と、十津川は、いった。  江崎は、笑って、 「では、どんな感じがするわけですか?」  と、きいた。十津川の気持を、試している感じの表情だった。 「武器を持った殺人者の感じがしますね」 「殺人者ですか?」 「そうです」 「どうも、十津川さんのいわれる意味がわかりませんね。彼等は、武器なんか、持っていませんよ。それは、十津川さん自身が、よく、おわかりの筈ですよ」 「その通りです。しかし、銃を持たせれば、強力な兵士のように、敵に向って、狙撃するだろうということですよ。何のためらいもなく、標的を、射つということです」  と、十津川は、いった。 「兵士のようにですか」  今度は、なぜか、きき返すという感じではなく、肯くようないい方だった。 「そうですよ。眼つきや、身体の動かし方は、兵士のそれです。私は、軍隊経験はありません。ただ、インターポールからの要請で、一年間、パリに行っていた時、フランスの軍隊を、見学したことがあります。一週間にわたってね。その時の若い兵士の眼や、動作によく似ているのですよ」  と、十津川は、いった。 「どんな風にですか?」 「機敏な動き、妙に澄んだ眼つき、そして、丁寧さ、そんなものです。特に、あの眼つきが、問題です。澄んでいるといいましたが、それは、純粋さとは、違うんですよ。いってみれば、ガラス玉のような透明さですね」 「どうも、よくわかりませんが」 「悩みとか、ためらいとかが欠けているという意味です。厳しい訓練を受けて、そうしたものを、捨ててしまった眼に見えましたね。兵士というのは、そういうもんでしょう。普通の人間は、敵に向って、銃の引金をひくことに、ためらいを持ちます。相手も、人間だから、当然です。眼も、濁っている。人を殺すことに、集中できないからです。これでは、兵士として落第です。そこで、訓練が始まる。考えることを、止《や》めてやる訓練です。考える余裕を与えない、ハードな訓練ですよ。一週間もすると、彼等の眼が、奇妙に、澄んでくるんです。人間的な眼から、動物的な眼になってくるんですよ。きれいな眼だが、恐しい眼です。猫が、鳥を見ると本能的に飛びかかるように、きれいな眼をした兵士は、銃を持たせると、何のためらいもなく、引金をひく。それが、訓練された、いい兵士なんです」 「あの二人が、そうだというんですか?」 「よく似ていると、いっているんです」  と、十津川は、いった。  江崎は、笑って、 「彼等の眼が澄んでいるのは、彼等は、アフリカの人たちのために、自分を捨てて、献身的に働いているからですよ。十津川さんの見方は、全く、間違っていますね」 「いや、間違っていないと、思っていますよ。海外で働く青年が多いのは、知っています。特にボランティア活動をしている青年たちには、敬意を払います。だが、彼等の眼が澄んでいるとは思わない。むしろ、澄んでいたらおかしいと思いますよ。なぜなら、さまざまな悩みを抱えている筈だからです。自分の力の小ささに悩み、周囲の無理解に悩み、国際問題に悩み、という具合にです。ところが、星野さんと、木原さんの眼は、そんな悩みとは、全く関係がない。確かに、悩みのない澄み方です」 「アフリカでのボランティアの仕事が、上手《うま》くいっているからですよ」  と、江崎は、いった。  十津川は、小さく、首を横に振った。 「二人とも、上手くいっている? そんなことは、奇蹟だし、全く抵抗を感じないような若者を、私は、信じないのですよ」 「どうも十津川さんは、変な先入観をお持ちのようですね。困りましたね。ところで、私の車で、一緒に、お帰りになりませんか?」 「いや、遠慮しましょう」  と、十津川は、いい、亀井と二人、自分たちの車へ、歩いて行った。      3  車に乗り込むと、亀井が、キーを差し込んでから、 「さっきのお話は、面白かったですよ」 「何がだい?」 「兵士の眼のことです。パリで、フランスの軍隊を一週間、見学した時のことですよ」 「あれは、嘘だよ」  十津川は、あっさり、いった。 「え? 嘘ですか?」  亀井が、びっくりして、踏みかけたアクセルを、離してしまった。 「フランスの外人部隊のことが頭にあったので、つい、フランスの軍隊のことにして話したんだ。ただ、眼が澄んでいるというのは、嘘じゃないよ。私の亡くなった叔父が、職業軍人でね。いろいろと、軍隊のことを話してくれた。その中に、面白い話があってね。戦時中、軍人の学校に入った時、教官が、こういったそうだ。お前たちの眼は、濁っている。だが、一ヶ月もすると、その眼が、澄んで、きらきら光ってくる。それを楽しみにしているとね。それから、連日の猛訓練が始まった。疲れ切って、物を考えるのも嫌になる。命令通りに動く機械になって行く。そうなった時、教官のいった通り、眼が澄んで、きらきら光ってきたというんだ。叔父は、鏡を見て、びっくりしたそうだよ。自分の眼が、きらきら光っていたのでね。素晴らしいと思ったといっている。だが、今から考えると、あれは、人間的な悩みを捨ててしまったのと、極度の緊張感から、澄んで、きらきら光っていたんだと、笑っていた。それが、今でも、記憶に残っていてね」  と、十津川は、いった。 「木原と星野が、その眼をしていると?」 「まあ、妙に、澄んでいるんだよ。悩みというものを、捨ててしまった眼だ。怖い眼だと思っている」  と、十津川は、いった。  亀井は、アクセルを踏み直し、車をスタートさせた。 「その眼を、アフリカの何処で、どうやって、作ったんですかね?」  と、亀井が、きいた。 「ぜひ、それを知りたいと、思っているんだがね」  と、十津川は、いった。  十津川は、頭の中に、アフリカの地図を、思い浮べてみた。どうしても、ばくぜんとした地図になってしまう。まだ、一度も行ったことのない場所だし、日本にもたらされる情報も少いからである。  まず、砂漠や、密林が、眼に浮ぶ。それに、アパルトヘイトの南アフリカ、エジプトのピラミッド、ナイルの流れ、そんなものが、切れ切れに、浮んでくるだけである。アフリカの現実というものが、よくわからないのだ。 「一度、彼等のいる場所へ、行ってみる必要があるね」  と、十津川は、いった。 「危険だと、思いますよ」 「ああ、わかっている」 「それにしても、あの二人が、射殺犯だという確信があるのに、手を出せず、アフリカへ飛び立って行くのを、見送っていなければならないというのは、口惜しいですね」  と、亀井が、いった。 「その中《うち》に、江崎周一郎を、逮捕してやるさ。江崎は、アフリカにいる何人、何十人かわからない若者たちに、栄養を与えている根っこだよ。江崎を消せば、彼等は、自然に、消えていくよ」  と、十津川は、いった。  だが、どうしたら、江崎を逮捕できるのか、それが、今のところ、見当がつかない。  江崎は、自分に不利な人間を、あの青年たちを使って、次々に、消している。が、それが証明できないのだ。  捜査本部に帰って、一時間ほどして、長谷部から、電話が、入った。 「絵ハガキを見ましたよ」  と、十津川の方から、先に、いった。 「そうですか。実は、ソウルで、川西を知っているという人間を見つけましてね。女性です。日本語と、朝鮮語の両方が出来るので、通訳としても、傭《やと》いたいと、思っているんです」 「その女性は、信用できるんですか?」  心配になって、十津川は、きいた。 「わかりませんね。ただ、川西を知っていることに、嘘はないと、思っています。ただ、どの程度、知っているかは、わかりません。用心深く、つき合って、話を聞き出しますよ」  と、長谷部は、いった。 「どんな女なんですか?」 「年齢は、二十五、六歳で、色白な、なかなかの美人ですよ。自分では、韓国人といっていますが、僕の眼には、どうも、日本人のように、見えるんです。日本語が、うますぎますからね」  と、長谷部は、いった。 「それなら、なおさら、注意して下さい。あなたを、釣り出すエサかも知れませんよ」  と、十津川は、忠告した。 [#改ページ]   第十七章 交 通 事 故      1  長谷部のことは、心配だったが、韓国にいるのでは、どうすることも出来ない。  十津川の心配は、他にも、沢山あった。心配というより、焦燥《しようそう》といった方が、いいかも知れない。  第一は、やはり、石川ひろみのことだった。彼女が、警察に協力したくないという気持もわかるのだが、ひとりで、兄の仇を討とうというのは、どう考えても、危険極まりない。一刻も早く、連絡して来て、問題の伝票を、渡して貰いたかった。 「石川ひろみのことを考えると、だんだん、腹が立ってきますよ」  と、亀井は、いう。 「しかし、なぜ、彼女は、消されないんだろう?」  と、十津川は、亀井に、きいた。 「多分、例の伝票を、彼女が持っているからでしょう。それが、一種の保険になっているんじゃないかと、思いますが」 「彼女が死ねば、その伝票が、警察に届けられるという保険かね?」 「そんな風にしてあるんじゃないかと思うんですが」 「問題は、いつまで、その保険の有効期限があるかということだな」  と、十津川は、いった。  連中だって、いつまでも、石川ひろみを、勝手に、歩き廻らせては、おかないだろう。何しろ、塩谷と、長井の二人を、容赦なく殺した連中なのだ。  伝票に残った三人も、連中は、危険とみて、消してしまうかも知れない。それで、保険は、切れてしまう。石川ひろみが、そこで、容赦なく、殺されることになるだろう。 (彼女だって、それは、わかっているだろうに)  と、十津川は、思う。彼女は、こうしている間にも、残った三人を探し、何とか、彼等の黒幕を、自供させようとしているに違いない。  だが、その時が、彼女にとっても、一番、危険な時なのだ。そのくらいのことを、彼女が、知らない筈はない。なのに、なぜ、警察に、連絡して来ないのだろうか。 「毎日、新聞を見ていて、身元不明の若い女の死体というニュースを見るたびに、どきッとしますよ」  と、亀井は、真顔で、いった。 「同感だね」  と、十津川も、いった。  と、いって、マスコミを使って、彼女に呼びかけるわけにもいかなかった。彼女の警察不信は、根強いものだろうし、また、警察が、協力を呼びかければ、それが、彼女の危険にも、つながりかねないのである。  もちろん、全く、手をこまねいて、彼女が現われるのを、待っているわけではなかった。  石川ひろみの友人、知人関係に、絶えず連絡を取っていたし、函館署にも、調べて貰っているのだが、彼女自身、徹底して、自分の知り合いに、連絡を取ろうとしていないのだ。多分、彼女は、自分の友人、知人に、迷惑をかけまいとしているのだろう。  世田谷署の交通係から、連絡が入ったのは、早朝だった。  昨夜おそく、世田谷区烏山の路上で、自転車に乗った若い女性が、トラックにはねられて入院したが、彼女が、石川ひろみではないかという連絡だった。  十津川は、亀井と、すぐ、世田谷署に急行した。  連絡してくれた平田という巡査部長に会い、その女が運ばれた病院に、案内して貰った。  K病院では、緊急手術をしたが、頭を強く打っていて、意識不明が、続いているという。  集中治療室で、彼女に会ったが、恐れていた通り、石川ひろみだった。 「彼女ですね」  と、亀井が、小声で、いった。  十津川は、その病院の待合室で、平田に、事情を聞いた。 「はねたのは、大型トラックで、運転していたのは丸山という男です」  と、平田は、いった。 「その運転手に、会いたいんだが」  と、十津川は、いった。  もう一度、世田谷署に戻り、十津川は、丸山運転手を、呼んで貰った。  小柄な、四十五、六歳の男である。青い顔で、 「どうしようもなかったんです。交叉点の近くまで来たら、突然、自転車が、飛び出して来ましてね。あわてて、ブレーキを踏んだんですが、間に合いませんでした」  と、いう。 「どのくらいのスピードで、走っていたんですか?」  と、十津川は、きいた。 「六十キロぐらいは、出していました。そのくらいは、いつも出して、走っています」 「十一トントラックでしたね?」 「ええ。満載だったのも、不運でした。ブレーキの利きが、どうしても、鈍くなってしまうんです」  と、丸山は、いった。  免許証を見せて貰ったが、十三年前に、取得していて、今までに、人身事故を起こしたことはないという。  点滅信号の交叉点で、小雨が降っていたこともあって、石川ひろみは、安全と思って、飛び出してしまったのだろうと、平田巡査部長は、いった。 「それに、彼女の乗っていた自転車ですが、盗んだものと思われるのですよ」 「それは、間違いないのかね?」 「ええ。××酒店の名前が、入っていました」 「彼女の住所は、わかったのかね?」  と、亀井が、きいた。 「それが、まだ、わからないんです。第一、身元を示すものがなくて、それを、探している段階ですから」 「自転車に乗っていたとすると、そう遠くではない筈だね」 「私も、そう思って、現在、現場周辺の聞き込みをやっているところです」  と、平田は、いった。  十津川と、亀井は、平田の案内で、現場の交叉点に行ってみた。  甲州街道から、かなり離れた場所で、確かに、点滅信号の交叉点である。  狭い道路から、広い道路に出てくるところで、十一トントラックは、その広い道路を走って来て、はねたのである。  ブレーキの痕《あと》が、かすかについていた。 「昨夜は、小雨が降っていたんだね?」  亀井が、念を押すように、平田に、きいた。 「そうです。それで、彼女も、トラックが、よく見えなかったんだと思います。悪い条件が重なっての事故だったと思っているんですが」  と、平田は、いった。 「彼女の所持品は、何もなかったのかね?」  これは、十津川が、きいた。 「周辺を探しましたが、何も見つかりませんでした」 「服装は?」 「ジーンズと、女物のブルゾン。それに、スニーカーです」 「財布は?」 「ブルゾンのポケットに、むき出しで、八千六百円入っていました。財布は、ありません」 「マンションのキーは、なかったのかね?」  と、亀井が、きいた。 「それを、今、探しておるんですが、見つかりません。はねられた時、ポケットに入っていたキーが、何処《どこ》かに、飛ばされてしまったんじゃないかと、思っています」 「何とかして、彼女の住所を見つけて欲しい」  と、十津川は、頼んだ。 「彼女の写真を、コピーして、それで、聞き込みをやることにしています」  と、平田は、いった。      2  無残に、ひん曲った自転車を、見せて貰った。  なるほど、××酒店の名前が、書き込まれている。  そこに問い合せてみると、近くの広場に、捨てたものだという返事が、返ってきた。  石川ひろみは、捨てられたものだから、構わないと思って、乗り廻していたのだろうか。  翌日になっても、石川ひろみの意識は、戻らなかったが、世田谷署から、彼女の住んでいたと思われるマンションが見つかったという報告が、届いた。  事故のあった場所から、歩いて、三十分ほどのところだった。  まだ、ところどころに、畠や、雑木林のある場所に、ポツン、ポツンと、マンションが建っている。  石川ひろみは、1Kの部屋に、住んでいた。五階にあって、十津川たちが、入ってみると、部屋の中は、明らかに、荒らされた感じになっている。  十津川は、ひと眼見て、 「やられたね」  と、亀井に、いった。 「誰かが、家探ししたことは、間違いありませんね」 「家探しした奴は、彼女が、事故にあったのを知っていたんだろうか?」 「その可能性は、ありますね。というより、彼女をはねた男が、家探ししたんじゃありませんか?」  と、亀井が、きく。 「と、いうことは、あれは、単なる交通事故ではなくて、殺人未遂じゃないかというわけかね?」 「ええ」 「しかし、世田谷署の交通係は、むしろ、石川ひろみの方が、悪いと見ているようだよ」 「ええ。自転車の件もありますし、トラックの運転手の方は、十三年間、人身事故を起こしていませんからね」 「カメさんの力で、十一トントラックを、借りられないかね?」  と、急に、十津川が、いった。 「どうするんですか?」 「私が、運転してみたいんだ」 「何とか、借りられると、思いますが」 「もし、出来たら、満載にして欲しいんだよ」  と、十津川は、いった。  亀井が、知り合いの運送会社から、十一トントラックを、借りてくれた。荷物を、満載にして貰って、十津川は、運転席に、乗り込んだ。助手席には、亀井が、座った。 「警部は、何を証明されるおつもりなんですか?」  と、亀井が、きく。  十津川は、大型トラックを、スタートさせてから、 「あの交叉点だがね。トラックが走っていた道路が、かなりの登り坂になっていたのを、思い出したんだよ」 「確かに、登って行って、例の交叉点に入るんでした」 「運転手は、六十キロのスピードで、走っていたといっている」 「ええ。それに、満載で、ブレーキの利きが悪くて、ぶつけてしまったと、いっています」 「普通の車なら、あのくらいの坂を登る場合でも、六十キロは出せると思うんだが、十一トントラックで、満載だと、果して、六十キロも出るんだろうかと、思ってね」 「一応、スピードメーターは、百四十キロまで、書いてありますが」  トラックは、大きなエンジン音を立てながら、甲州街道を、走って行く。平坦な道路では、楽に、六十キロが出る。  甲州街道を折れて、問題の交叉点に近くなった。  登り坂に入る。  十津川は、アクセルを、一杯に、踏みつけた。  だが、スピードメーターの針は、のろのろとしか、回っていかない。  いくら、アクセルを踏んでも、四十二キロ以上は、針が回らないのだ。 「やっぱりだ」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。念のために、亀井にも、運転させた。それでも、四十二キロ以上のスピードが、出ない。 「嘘をつきやがった」  と、亀井は、大声を出した。  六十キロで、交叉点に入ったというのが嘘なら、他のことでも、あの運転手が、嘘をついていた可能性は、あるのだ。 「もう一度、丸山運転手に、会ってみよう」  と、十津川は、いった。      3  十津川と、亀井は、そのまま、トラックで、丸山の働いている運送会社に、乗りつけた。  十津川が、事務所に入って行って、丸山に会いたいというと、小柄な営業所長が、 「丸山は、今日は、休んでいますよ」  と、いった。 「住所は?」 「この近くのアパートに住んでいる筈ですが」 「そこに、案内して下さい」  と、十津川は、いった。 「事故は、向うさんの方が、悪いと、聞いていますが──」  と、いいながら、所長は、自分で、二人の刑事を、丸山のいるアパートへ案内してくれた。 「ここの奥の筈ですがね」  と、所長は、二階の奥の部屋へ、十津川たちを、連れて行った。 「丸山」と書いた紙が、ドアの上に、貼ってある。 「丸山君」  と、所長が、呼びながら、ベルを押した。  返事はない。ドアを叩いても、反応は、同じだった。 「留守なのかな?」  と、所長が、呑気《のんき》なことを、いっている。十津川は、眉を寄せて、 「今日、休むと、丸山さんの方から、連絡して来たんですか?」 「いや、今日は、連絡はありません。昨日、事故を起こしたので、二、三日、休みたいと、いっていたんですよ」 「丸山さんの家族は?」 「いや、彼は、独身です」 「独身?」 「ええ。奥さんとは、別れたんじゃないですか」 「いつから、あなたのところで、働いているんですか?」  と、亀井が、きいた。 「半月ほど前からです」 「そんなに、新しいんですか?」 「ええ。今は、運転手不足だし、キャリアがあるので、喜んで、採用したんですが」 「勤務振りは、どうでしたか?」 「まじめでしたよ。同僚との折り合いもいいんで、安心していたんですが」  と、所長は、いう。  十津川は、管理人に、来て貰った。 「開けて貰いたいんだが」  と、いうと、管理人は、予備のキーを持って来て、ドアを開けてくれた。  六畳一間の部屋に、十津川と、亀井が、飛び込んだ。 「あッ」  と、二人が、同時に、叫び声をあげた。  六畳と、キッチンの境の鴨居《かもい》に、ロープを結びつけ、丸山が、首を吊って、ぶら下っていたのだ。  所長と、管理人は、呆然として、入口のところに、突っ立っている。 「また、先を越されましたね」  と、亀井が、小声で、十津川に、いった。  十津川は、すぐ、鑑識を呼ぶことにした。  丸山は、すでに、死亡していて、救急車を呼んでも、間に合わなかった。死後硬直が、始まっているのだ。 「やはり、事故のことが、気になっていたんでしょうかね」  と、所長が、青い顔でいうのを、十津川は黙殺して、部屋の中を見廻した。  事故を気にして、自殺したなどと、十津川は、思っていない。先廻りして、誰かが、この不運な運転手を殺したのだ。  鑑識が駈けつけて、写真を撮り、部屋の中の指紋を採取した。  丸山の死体も、床に下された。  十津川は、部屋の外に、所長を連れ出した。 「彼の提出した履歴書を、見せてくれませんか」  と、十津川は、いい、亀井に、あとを委《まか》せて、営業所に、戻った。  所長の出してくれた丸山の履歴書に、眼を通した。  本籍は、福島県になっていた。 「この履歴書が、正確かどうか、調べましたか?」  と、十津川は、きいた。 「いや、信用して、調べませんでした。一番大事な運転免許証は、本物でしたからね」  と、所長は、いう。 「免許証の住所は、何処になっていましたか?」 「東京ですよ。東京の杉並です」 「履歴書の現住所と同じですか?」 「そうです」 「だが、あのアパートを世話した?」 「ええ。ここの近くに、住みたいといいましたからね」 「この現住所に、本当に、住んでいたかどうか、それも、別に、調べなかった?」 「免許証と同じなのに、疑うこともないと思いましたからね」  所長は、当然でしょうという顔で、いった。 「あの部屋は、荷物が、ほとんど、ありませんでしたね?」 「ええ。しかし、独身だから、あんなこともあるでしょう」  と、所長は、いった。  十津川は、杉並へ行ってみることにした。  杉並区西荻のマンションである。七階建のマンションだったが、去年の十月から、管理人をやっているという男は、丸山という名前を聞いて、 「私は、聞いたことがありませんね。私が来る前に、住んでいた方じゃありませんか」 「五〇三号室なんですがね」 「それなら、白木さんにきいてみましょう。五〇一号室に、もう、五年、住んでいる方です」  と、管理人は、いい、白木という男を、紹介してくれた。三十二、三歳で、雑誌のレポーターをやっているという白木は、 「丸山さんなら覚えていますよ。確か、去年の三月頃、引越して行ったんです」  と、いった。 「行先は、覚えていませんか?」  と、十津川は、きいた。 「いや、そういうことには、興味がないんでねえ」 「当時、何をしていたか、わかりますか?」 「ブローカーみたいな仕事をしていると、いっていましたね。何でも、個人で、韓国や、東南アジアから、品物を、輸入したりしていると、いっていましたよ。僕も、台湾から輸入したという人形を、一つ、貰いました」  と、いい、十津川に、その人形を、見せてくれた。高砂族の娘の人形だった。 「彼は、五〇三号室に、ひとりで、住んでいたんですか?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。ひとりのようでしたね。たまに、女性の声が聞こえたこともありますが。奥さんはいないのかときいたら、逃げられたと、笑っていましたよ」 「引越す時、何か、いっていませんでしたか?」 「さあ、いつの間にか、いなくなっていましたからね」 「この人形の他に、輸入品で、見たものは、ありませんか?」  と、十津川は、きいた。 「いや、ありませんが、丸山さんが引越してすぐ、彼のことを、いろいろと、ききに来た人がいましたよ」  と、白木は、いった。 「どんな人間ですか?」 「確か、税関の人間だといっていましたね。身分証明書を見せられたんですが、あまり、興味がなくて」  と、白木は、笑った。 「その税関の人間は、あなたに、何をきいたんですか?」  十津川は、興味を覚えて、きいた。 「それが、あいまいな質問でね。丸山さんが、どんな品物を、輸入していたのかとか、どんな人間と、つき合っているかとかですよ。よく知らないと、答えましたがね」  と、白木は、いう。 「その税関の人の名前は、覚えていませんか?」  と、十津川は、きいてみたが、白木は、頭を、横に振るだけだった。  十津川は、白木に礼をいい、丸山のアパートに戻った。  すでに、丸山の死体は、解剖のために、大学病院に送られ、鑑識も、帰ってしまっていた。  十津川は、亀井と、借りた十一トントラックを返し、捜査本部に戻った。石川ひろみの入院しているK病院に、電話してみたが、まだ、意識は戻っていないということだった。  十津川は、丸山のことを調べていたという税関の人間に、会いたいと思った。多分、成田空港で働く税関職員だろうと考え、刑事部長から、連絡を取って貰った。  その結果、村上という成田税関の職員とわかり、十津川は、会うことが出来た。村上は、四十二、三歳の男で、眼鏡をかけ、話す時に、時々、その眼鏡に、手をやった。 「丸山には、かなり長い間、注目していたんですよ」  と、村上は、残念そうに、いった。 「彼は、死にました」 「死んだ?」 「そうです。今日、首を吊って死んでいました」 「自殺ですか?」 「形は、そうなっていますが、私は、殺されたと思っていますよ。それで、二年前の彼について、あなたに、お話を聞きたくなったんです。成田税関が、丸山に目をつけたのは、覚醒剤ですか?」  と、十津川は、きいた。 「そうです。何人か、マークしていた人間がいましてね。その中の一人が、丸山だったんです」 「なるほど。他の人間というのは? よろしかったら、名前を、教えてくれませんか?」  十津川が、いうと、村上は、手帳を出して、五人の名前を、教えてくれた。  その中に、川西茂男の名前もあった。 「この男も、マークされていたんですか」  と、十津川が、川西の名前を、指さすと、村上は、 「川西と、丸山は、おかしなことに、次々に、姿を消しましてね。われわれが、尻尾をつかんだわけでもないのに、消えてしまったんです」 「川西は、北海道で、宅配便を使って、覚醒剤を、売買していたと思われるんですよ」  と、十津川は、いった。 「北海道ですか? 函館で起きた事件に、関係していたということですか?」  と、村上は、きき返した。 「そうです。新聞には、Kというイニシアルで出ましたが、あれが、川西茂男です」 「東京から消えたと思ったら、北海道にいたわけですか」 「丸山と、川西とは、関係があったんですかね? 全く、別々に、覚醒剤の密輸をやっていたんでしょうか?」 「一度、二人が一緒に、成田の税関を通り、台湾へ行ったのは、知っています。仲間だったとすると、川西茂男は、大物の方で、丸山は、小物の感じですね」  と、村上は、いった。 「二人の背後に、スポンサーがいると、お考えになったことは、ありますか?」 「もちろん、スポンサーがいると、思っていましたよ。最初に考えたのは、暴力団の介在です。それが、一般的ですからね。それで、川西や、丸山が、出発する時や、到着する時、それらしい人間が、迎えに来ていないかどうか、調べました」 「その結果は、どうでした?」 「それが、全く、迎えも、見送りもないんですよ。どうも、暴力団とは、関係がなかったと考えざるを得ないんです」 「なるほど」 「しかし、そうなると、おかしいことも、出てくるんです」 「どんなことですか?」  と、十津川は、きいた。 「川西も、丸山も、ひんぱんに、韓国や、東南アジアを、往復していました。その中《うち》、何回、覚醒剤を持ち込んだのか、見当はつきません。或いは、向うに、仲間を作っていて、彼等に運ばせたことがあるかも知れない。いずれにしろ、二人は、相当な儲けを手に入れたと思われるのに、驚くほど、質素な生活をしていたんです。それが、不思議でしたね。それで、私の同僚の中には、川西も、丸山も、覚醒剤には、手を出していないのではないかと、いう人間もいたくらいです」 「しかし、村上さんは、確信を、持っておられたんでしょう?」 「そうです」 「それは、なぜですか? 川西なり、丸山なりが、覚醒剤を持ち込んだところを、見つけたわけですか?」 「いや、残念ながら、それは、ありません」  と、村上は、いう。 「では、なぜですか?」 「一つは、勘ですね」 「他にも、理由が、ありますか?」 「二人のどちらだったか忘れましたが、一度、韓国の方から、情報が入ったことがありました。明日、帰国するが、覚醒剤を持っているという情報です。私は、手ぐすねひいて、待ち構えていました。ところが、相手は、アフリカの外交官と一緒に、帰国して来ましてね。明らかに、その外交官が、荷物を預かっていると思ったんですが、調べられません。それで、まんまと、通関してしまったんですよ」 「アフリカの外交官ですか?」 「そうです。確か、韓国から、日本へ転任して来たんだったと思います。川西か、丸山が、その外交官と、どうやって、親密になったのかわかりませんが、その時、逆に覚醒剤の密輸をやっていると、確信したんです」 「アフリカですか──」 「十津川さんは、何か心当りが、おありですか?」 「わかりません。村上さんは、江崎周一郎という名前を、お聞きになったことが、ありますか? 川西と、丸山の二人に、関連してですが」  と、十津川は、きいた。 「エザキですか? ちょっと、覚えがありませんね」 「思い出されたら、知らせて下さい。それから、アフリカの外交官ですが、何という国だったか、覚えていませんか?」 「あまり知られていない国ですが、ブビアという、国名でしたね。砂漠の中の小さな国ですよ。貧しい国なので、川西だったか、丸山だかが、金で、買収して、自分の荷物を持たせたんじゃないかと、私は、考えたんですがね」  と、村上は、いった。 「その外交官ですが、村上さんが、成田で会われたのは、その時だけですか?」  と、十津川は、きいた。 「それが、旅行好きとみえて、何回か、成田を、通っています」 「帰国する以外にですか?」 「ええ。韓国や、東南アジアへの旅行です」 「すると、その度に、覚醒剤を、持ち込み、川西や、丸山を通して、売却した可能性もあるわけですね?」  と、十津川は、きいた。  村上は、暗い眼つきになって、 「もちろん、それは、考えました。しかし、確証がないと、持ち物を調べるわけにはいきませんのでね」  と、いった。 [#改ページ]   第十八章 アフリカの砂漠      1  そのアフリカに、江崎周一郎が出発したと、十津川が、知ったのは、出発の二日後だった。  十津川は、彼が、カイロ経由で入ったと聞き、外務省を通じて、日本のエジプト大使館に頼んで、行先を調べて貰った。  その結果、江崎が、アフリカの中央部にある小さな共和国、ブビアに入国していたことが、わかった。これは、別に、発見というほどのことではなかった。問題の大使館員が、ブビア共和国の人間だと教えられた時点で、すでに、想像がついていたことだからである。  ブビアの面積は、ほぼ、北海道の二倍で、国土の三分の二は、砂漠である。中東のように、石油が出るわけではなく、といって、鉱物資源にも恵まれず、貧しい国だといわれている。  オアシス地帯に、首都ブビアがある。  人口は、約三十五万。十津川の持っているブビア共和国に対する知識は、この程度のものだった。  十津川は、三上刑事部長に、ブビア共和国へ行かせて欲しい旨をいった。 「この国で、江崎が、何をしているのか、それを知りたいと思います。それが、今度の事件の解決の手掛りになるような気がします」  と、十津川は、いった。 「どんな手掛りがつかめるというのかね?」  と、三上が、半信半疑の顔で、きく。 「例えば、星野や、木原といった青年たちが、アフリカの何処《どこ》に行っていたのかわかりませんでしたが、恐らく、この国へ行っていたのではないかと、思うのです」 「ブビア共和国へかね?」 「そうです」 「しかし、そこで、農業の指導をしているのなら、別に、どうということはないんじゃないかね。それどころか、結構なことじゃないか」 「そうです。私は、実際に、彼等が、ブビアで何をしているか、自分の眼で、確かめて来たいのです」 「向うで、妙なことをされて、外交問題にでもなっては、困るんだがねえ」  と、三上は、いった。 「その点は、大丈夫です。休暇をとり、一私人として、ブビアへ行くつもりです。向うで、私の身に何が起きても、個人的な問題ということで、外交問題にはならないようにします」  と、十津川は、いった。  それでも、三上は、心配していたが、十津川が、一週間の休暇願を出し、ブビアへの入国の目的も、観光ということにすると、やっと、許可を出してくれた。  十津川が、ブビア行のことを話すと、亀井は、心配した。 「警部は、その国のことを、よくご存知ではないんでしょう?」 「よくどころか、全く知らないよ。アフリカ関係の本を見ても、あまり出て来ないんでね。行く前に、外務省へ行って、知識を詰め込んで来るつもりだ」 「そうだとすると、危険ですよ。向うで、江崎が、何を企《たくら》んでいるかわかりませんから」 「覚悟はしているよ」  と、十津川は、笑った。  彼は、外務省へ行き、アフリカ担当の藤井という局長に会った。  十津川が、ブビア共和国の名前を出すと、藤井は、不思議そうな顔をして、 「なぜ、あの国に興味を持たれたんですか? 観光といっても、これといって、見るところはありませんよ。国土の大半が、砂漠ですから」 「知られていない国ということで、興味があるんです。それで、行く前に、一応の知識を得ておきたいと思いましてね」  と、十津川は、いった。 「あの国の知識といっても、お教えするものは、あまりありませんが」 「しかし、国交があって、お互いに、大使館を設けているわけでしょう?」  十津川がいうと、藤井は、笑って、 「本当は、領事館でよかったんですが、ブビアの国民は、誇り高き人々でしてね。どうしても、大使の交換をと求められたんですよ。アフリカ外交は、今後、重要になってくると思えるので、向うの要求を入れましたが、首都ブビアにある日本大使館には、五人の人間しかいませんし、その五人も、周辺の国との外交事務を、兼務しています。まあ、領事館ですね。ブビアの日本大使館も、ビルの中に、間借りしていますしね」 「貧しい国と書かれていますが」 「ええ。石油も他の鉱物資源もありませんからね。人口の大半は、遊牧民です。現在、国内のいくつかのオアシスの周辺で、農業が、奨励されているようです」 「日本も、技術援助をしているんですか?」 「いや、今のところ、国として、そうしたことは、していません」 「すると民間の会社が、やっているということは、ありませんか?」 「それもありませんね。あの国には、商社が、輸入するようなものがありませんから。もし、農業指導をしているとすれば、民間のボランティアでしょう」 「実際に、日本人のボランティアが、ブビアで、農業を手伝っているということがあるんですか?」 「最近、向うで働いている日本人がいるという話は聞いていますが、実際は、わかりません」 「ブビアの国家予算は、どのくらいですか?」 「それについて、面白いことがあるんですよ」  と、藤井は、いった。 「どんなことですか?」 「ブビアの国家予算は、ここのところ、ずっと、日本円にして、百五十億円前後だったんですが、ここへ来て、急に、百七十億円にはね上りました。その理由が、はっきりしないのですよ。油田でも発見されたのなら別ですが、そんな話は聞いていませんしね」 「軍隊は、持っているんですか?」 「今もいいましたように、誇り高き民族ですからね、何としてでも、近代国家の体裁を整えたい。軍隊も持ちたいということで、公称二万の軍隊があります。実質は、一万程度といわれていますがね」 「軍の装備は、どうなんですか?」 「それなんですが、最初は、他国の軍隊からの払下げの中古の武器しか持っていないといわれていたんですが、最近、急に、近代的な銃が、行きわたり始めたという情報があります」 「どうして、そうなったんでしょうか?」 「例の国家予算と、関係があると思っているのですがね」 「ここへ来て、急に、日本円で、二十億円も増えたということですか?」 「そうです。それが、武器の購入に廻されたのではないかと思われるのです。もちろん、戦車などは、購入できませんが、小火器なら、多量に買えますからね」  と、いったあと、 「ブビアに行かれるのなら、向うの情報大臣に、お会いなさい。親日家ですから」  と、教えてくれた。      2  十津川は、ソムコという情報大臣への紹介状を書いて貰い、翌日、成田から、カイロ行の飛行機に乗った。二十時間を超える旅だった。  カイロに着いたのは、九月十九日である。  ここから、ブビア共和国へは、週一便の飛行機が出ているだけだった。  そのため、十津川は、二日間、カイロ滞在を、余儀なくされた。  ようやく、ブビア行の飛行機に乗ることが出来たが、これが、中古のプロペラ機で、本当に飛んでくれるのかどうか、危い感じだった。  六十人乗りだが、十津川を含めて、十二、三人の乗客しかいない。  定刻より二時間近くおくれて、カイロ空港を飛び立ち、その後、二ヶ所で、給油し、ブビア空港に着いたのは、八時間後だった。  空港といっても、ただの原野の感じで、プレハブ造りの空港事務所が、見えた。その建物に、|国 際 空 港 (インターナシヨナル・エアポート)と、英語で書かれているのが、十津川には、ほほえましかった。これも藤井局長のいっていた誇り高き民族意識の表われの一つなのだろうか。  空港には、二機のプロペラ機が、とまっていた。十津川を、乗せて来た飛行機も、そうだったが、いずれも、第二次大戦の生き残りの感じだった。  藤井局長が、連絡してくれておいたので、ソムコ情報大臣が、ベンツで、迎えに来てくれていた。  三十代の若い大臣で、英語が通じるので、十津川は、ほっとした。  痩《や》せた、背の高い男で、誇り高いアフリカ人という表情をしていた。 「わが国は、日本の友人を、歓迎します」  と、ソムコは、握手のあと、十津川に向って、いった。  砂漠の黄色と、オアシスの緑を描いた国旗を、なびかせて、ベンツは、走り出した。  首都ブビアの人口は、約十五万といわれている。しかし、メインストリートには、ほとんど、車の姿はなかった。自転車や、馬車が、主要な交通手段のようだった。  信号のない道路を、ベンツは、猛スピードで走って、官庁街に着いた。  官庁街といっても、ビルはなく、全て、プレハブの建物だった。  ソムコは、車を降りると、十津川を、情報省の中に、案内した。カイロからの飛行機の中も、エアコンは利いてなかったが、この建物の中も、大きな扇風機が、天井で、ゆっくりと廻っているだけである。なまじ、迎えのベンツの車内で、クーラーが、利いていただけに、どっと、汗が吹き出してきた。  赤道に近く、外の気温は、四十度に近いだろう。 「わが国は、日本人の援助に、感謝しています」  と、ソムコは、改まった口調で、いった。 「しかし、日本は、この国に経済援助はしていない筈ですが」 「ミスター・エザキのことですよ」  と、ソムコは、いった。 「エザキ・シューイチロウ?」 「そうです。彼の多額の寄附によって、首都の近くに、広大な農業基地が建設されました」 「彼は、今、この国に、来ているそうですね?」 「イエス。滞在されています」 「ぜひ、会いたいのですがね」 「多分、駄目でしょう。ミスター・エザキは、誰にも、会いたくないと、いっていますのでね」 「連絡は、取れますか?」 「もちろん」 「それでは、私が、会いたいといっている旨を、伝えてくれませんか。それでも、ノーといえば、諦めます」  と、十津川は、いった。  ソムコは、一応、伝えてみると、いって、奥へ消えたが、五、六分して、戻って来ると、白い歯を見せて、 「ミスター・エザキは、会うといいました。ここで、お待ち下さいともいいました。迎えに来るそうです」  と、いった。  だが、すぐには、現われなかった。それどころか、三時間も待たされ、やっと、江崎が、やって来た。  ショートパンツに、Tシャツという恰好で、入って来ると、彼は、ソムコと、握手し、十津川に、 「すぐ、行きますか?」  と、きいた。  何処へ行くのかわからなかったが、十津川は、肯《うなず》き、ソムコに、礼を述べてから、江崎と一緒に、外へ出た。  外には、大型のジープが、とめてあった。江崎は、身軽く、運転席に飛び乗ると、 「どうぞ」  と、十津川を、誘った。 「何処へ行くんですか?」 「私の宿舎ですよ。この国に来た時、いつも泊る宿舎です」 「そこに、星野や、木原もいるわけですか?」 「行ってみれば、わかりますよ。怖いですか?」  江崎は、からかうように、十津川を見た。 「いや、別に」  と、いって、十津川は、助手席に乗り込んだ。  江崎が、乱暴に、車をスタートさせた。  青空マーケットの賑《にぎ》わいの傍を、猛烈な土埃《つちぼこり》を立てて、ジープは、走り抜けた。  やがて、多数のスプリンクラーが、回転している農業基地に、着いた。  エザキ農業基地と、書かれた看板が、眼に入った。彼が寄附した金で作った農業基地というのが、これなのだろう。  だが、江崎は、車をとめず、なお、走り続けた。  やがて、周囲から緑が消え、赤茶けた大地に変った。  ところどころに、痩せた、小さな木が、見える。痩せた牛の群れを引きつれた黒人が、見えた。  江崎のジープは、その牛の群れを蹴散らすように、走り続ける。  そうした牛の群れも、消えて、本当の砂だけの世界になった。  急に、車のスピードが、鈍くなる。タイヤが、砂にめり込んだのだ。  風が吹いて来て、砂塵が、視界を、遮《さえぎ》ってしまう。  それでも、江崎は、アクセルを踏み続けた。  二時間も、走り続けたろうか。  砂だけの世界の向うに、突然、砦《とりで》が現出した。  石を積みあげて造られた城塞だった。中に入って行く。プレハブの兵舎が並び、大型ジープが、三台とまっていた。  江崎は、ブビアの国旗が立っている司令部に、十津川を、案内した。  建物の中では、扇風機が、うなり声をあげている。江崎は、冷蔵庫から、冷えたコーラを取り出して、十津川に、すすめた。  窓の外では、何十人もの若者が、迷彩服を着て、射撃の訓練をしていた。  その乾いた発射音が、ひっきりなしに、聞こえてくる。その兵士たちの顔は、ブビア人ではなく、明らかに、東洋人、それも、日本人と思われるものだった。 「驚きましたか?」  と、江崎が、きいた。  十津川は、首を、横に振った。 「日本の国内で、射撃訓練できるところは、ありません。自衛隊以外には、クレー射撃場があるが、あなた方が、使っているのは、軍用銃ですからね。だから、多分、国外で、訓練しているのだろうと、思っていました。しかし、こんなものを、よく、ブビアの政府が、許可しましたね?」 「私はね、この国に、年間、二十億円を寄附しているんですよ。貧しいこの国の国家予算の実に七分の一の金額です。それに、東京のブビア大使館のあるビルは、私の所有です。両国の親善のために、私は、無料で、提供しています」  と、江崎は、誇らしげに、いった。 「その二十億円は、覚醒剤で、儲けたものじゃないんですか?」  十津川が、きくと、江崎は、笑った。 「ブビアにとって、二十億円は、二十億円でしかありませんよ。それに、私にとって、手段は、問題じゃない。目的が、大事なんです」 「目的? どんな目的があるんですか? この外人部隊で、何をしようと思っているんですか?」  と、十津川は、きいた。  江崎は、それには、答えず、窓の外に眼をやって、 「ごらんなさい。彼等が、あんなに、生き生きとして、真剣に、動いているでしょう。眼が輝いているのが、わかりますか? 今の日本の若者たちが、何か面白いことばかりを、探しているのと、大変な違いでしょう?」 「私の疑問に、答えていませんよ」 「私はね、今、四十九人いる彼等を、増やしていきたい。百人にし、二百人にし、千人にしたいんですよ」 「それで、この国を守るんですか?」  と、十津川が、きくと、江崎は、また、馬鹿にしたように、笑った。 「この国は、確かに、軍隊を持っていますよ。だが、誰も、攻めて来やしませんよ。軍事上の要衝《ようしよう》というわけじゃないし、これといって資源もありませんからね。私が、あの青年たちに託したいのは、日本の将来ですよ」 「日本の?」 「そうです。今度の湾岸戦争で、日本の自衛隊が、何の頼りにもならないことは、よく、わかった筈ですよ。政治の中に組み込まれた軍隊は、当てに出来ないんです。独立した軍隊が、必要です。あの若者たちは、戦争を怖がっていない。むしろ、戦いが好きなんです。役に立ちますよ」 「なるほど、そういう意味ですか」 「彼等は、勇猛で、最新の火器に、習熟しています」 「その武器は、どうやって、調達したんですか?」 「この国にも、軍隊があると、いった筈ですよ。今は、軍縮で、武器を生産している国は、売れなくて、困っている。個人には売らなくても、ある国が買うといえば、喜んで、売りますよ。この国の軍隊にだって、アメリカ、フランス、イギリス、ソ連、中国などが、争って、武器を売り込みに来ている。その武器が、ここにも、廻って来ているだけのことですよ」 「暗視装置つきの銃もあるわけですね?」 「もちろん。夜になったら、その素晴らしい射撃を、お見せしますがね」  と、江崎は、いった。 「しかし、ここの銃は、外には、持ち出せない筈です。星野や、木原は、どこから持って来た銃を、日本で、使ったんですか?」  十津川は、質問してから、「ああ」と、自分で、肯いて、 「ブビアの大使館か。あの大使館に、銃が、隠されていて、それを借りて、狙撃したんだな。大使館なら、家探しされることもないから」 「何をぶつぶつ、いっているんですか?」  と、江崎は、笑った。 「彼等を、訓練しているのは、誰なんですか?」 「あそこに、白人が、ひとりいるでしょう? アメリカの退役将校ですよ。根っからの戦争屋でね。頼んだら、喜んで、教えてくれているんですよ」  と、江崎は、いった。  青年たちは、相変らず、銃を射ち続けている。  十津川は、次第に、息苦しくなってきた。 「ちょっと、外を歩いて来たいのですがね」  と、十津川は、いった。 「構いませんよ。しかし、砂漠で、遠くへ行くのは、自殺と同じですよ」  と、江崎は、脅かすように、いった。  十津川は、外に出て、砂の丘へ、ゆっくりと、登って行った。  靴の中に、容赦なく、細かい砂が、入って来る。それに、照りつける太陽。  やっと、砂丘の上に登った。  城塞が、見下せる。  まだ、映画の中の一つのシーンとしか見えない。銃声が聞こえてくるのに、幻想の世界のように、思えるのだ。 (これは、現実なのだ)  と、十津川は、自分にいい聞かせた。  次第に、周囲が、暗くなってきた。砂塵のためか、沈んでいく太陽も、赤くはなく、黄色く見える。  温度も、急速に下ってきたらしく、十津川は、脱いでいた上衣を着て、襟を立てた。  司令部の建物に戻った。空の下は、月の光だけの、夜の世界である。その中で、青年たちは、暗視装置をつけた銃での射撃に入っていた。  五十メートル先の標的は、十津川には、見えない。だが、青年たちの銃が、火を噴く度に、命中した所に、小さな爆発が起きた。  続いて、距離が、百メートルになり、同じように、夜間射撃が、続けられる。これも、百発百中なのだ。 「どうですか?」  と、江崎が、横から、得意げに、十津川に、きく。 「見事なものですね」 「射撃の腕では、彼等は、どこの兵隊にも負けませんよ」 「その腕を、人殺しに、使うわけですか」  十津川が、強い眼で、江崎を、見返した。 「兵士は、人を殺すことが、仕事ですよ。確実に、敵を殺せる兵士が、いい兵士なんです。今の平和ボケの日本人は、そんな基本的なことさえ忘れてしまっている。困ったことです。私はね、この連中を増やして、彼等の眠りをさましてやりたいんですよ」  と、江崎は、いい返した。 「彼等を使って、日本を、何とかしようというわけですか?」  十津川は、江崎に、きいた。 「これからの世界で、名誉ある生き方をするには、力が、必要だということを教えたいんですよ。優しさだけでは、国家は、保てないんだ。あなただって、警察の人間だから、よくわかっている筈ですよ」 「どんな主義を持つのもいいですが、われわれ警察は、あなた方の覚醒剤密輸と、殺人は、徹底的に、捜査していくつもりですよ」  十津川が、きっぱりいうと、江崎は、びっくりしたような顔で、 「失礼だが、あなたは、ご自分の立場が、よくおわかりになっていないようですな」  と、いった。 「私の立場は、いつでも同じですよ。犯罪を犯した者は、必ず逮捕する。それが、私の立場ですよ」  十津川は、いい返した。  江崎は、窓を開け、大声で、 「星野君! 木原君!」  と、呼んだ。  迷彩服姿の星野と、木原が、銃を持って、司令部に、入って来た。  江崎は、二人に向って、 「君たちは、この人を、知っているな?」 「知っています。警視庁捜査一課の十津川警部ですが、ここでは、どんな肩書があるんですかね。ただの中年の男性じゃありませんか」  星野が、笑い声を立てた。 「それを、試してみなさい」  と、江崎は、二人に、いった。 「では、われわれと、同行して下さい」  木原が、丁寧だが、うむをいわせぬ調子で、いい、星野が、拳銃を抜いて、十津川の脇腹に押しつけた。 「何処に行くというのかね?」  十津川も、緊張した顔で、きいた。 「ここで、まさか、飲みに行くとは、思っておらんでしょう。ここでは、砂漠以外に、行く場所なんかありませんよ」  木原が、いった。  十津川は、大型ジープに乗せられた。星野が、拳銃を押しつけ、木原が運転して、砦を出発した。  夜気が、冷たい。月の淡い光が、波打つ砂漠を、美しく、幻想的に見せていた。  木原の運転するジープは、その砂漠を、走り続けた。 「何処へ行くのかね?」  と、十津川が、きいても、二人は、黙っている。  十津川も、諦めて、黙ってしまった。  二時間近く、走り続けたろうか。  木原は、車をとめ、 「降りて下さい」  と、冷静な口調で、いった。星野が、拳銃の先で小突いた。 「ノーといったら、どうなるのかね?」  と、十津川は、きいた。木原が、笑って、 「死体で、ここへ放り出しても、一ヶ月もすれば、他の動物の骨と、変りがなくなるんだよ」  と、いった。  十津川は、車を降りた。  星野が、小さな包みを、十津川の傍に、放ってよこした。 「二つ、忠告しておく。あの砦に戻って来ようとはしないことだ。もし、近づけば、侵入者として、容赦なく、射殺する。この国では、正当防衛になるんだよ。第二は、砂漠は、どこが国境かわからん。下手な逃げ方をすると、国境侵犯者として、射殺される。このことを知っていれば、ひょっとして、逃げのびられるかも知れんよ。せいぜい、努力するんだな。恐らく、あんたは、この広大な砂漠の何処かで、死ぬ。その時、自分が、刑事として威張っていられたのは、日本国内でだけなんだと、悟る筈だ」  それだけ、いい残して、ジープは、走り去ってしまった。      3  人影も、もちろん、無い。が、物音も聞こえて来ない。聞こえるのは、風と、風で流れる砂の音だけである。  十津川は、木原たちが、投げ落としていった包みを開けてみた。  月明りの中で、ゆっくりと、調べる。コンパス、水筒、かたいパンが二切れ、それにリボルバーの拳銃一挺。それだけである。  拳銃の弾倉には、弾丸が一発だけ、入っていた。それが、何を意味しているのか、十津川には、すぐ、わかった。  いざとなったら、これで、自殺したらいいということに違いない。  やたらに、寒い。砂漠が、こんなに寒いものとは、十津川は、知らなかった。樹も、水も、家も無い砂漠は、昼間の熱を、保つことが出来ず、熱も、放射して、消してしまうせいだろう。  だが、身体を隠すものが無い砂漠では、ただ、耐えなければならない。  十津川は、両手で、砂を掘り、その中に、身体を隠すようにして、じっと耐えた。  何時間かして、やっと、周囲が明るくなってきた。寒さが消え、逆に、暑さが、襲いかかってくる。寒さも耐えがたかったが、暑さも、耐えがたくなってくる。  夜も、どの方向へ行けばよいのかわからなかったが、明るい昼間も、砂だらけのこの大地は、どの方向へ行ったらいいのか、わからないのだ。  あの砦へは、戻れない。近づけば射殺するというのは、脅しでなく、本当だろう。  十津川は、とにかく、砦とは、反対の方向へ、行くことにした。そこに、何があるかわからないのだが、じっと動かなければ、待っているのは、死だけだからだ。  とにかく、歩くことにした。  水を飲み、パンをかじり、コンパスを頼りに、十津川は、歩き出した。  最初は、かなりのスピードで、歩くことが出来た。  だが、すぐ、疲労が、十津川に、襲いかかってきた。砂の中に、どんどん、足が、もぐってしまう。恐しいほどの砂の抵抗、それに負けずに、足を動かすには、物すごいエネルギーが要るのだ。  十津川は、この時ほど、自分の体重を、恨めしく思ったことはなかった。水すましのように、軽くて、足が、沈まないように出来ていれば、この砂の海だって、苦もなく、歩けるだろうに。  その上、容赦のない暑さが、加わる。暑さに負けて、水を飲んでいて、十津川は、愕然とした。これでは、たちまち、水が、無くなってしまう。  十津川は、体力の消耗する昼間に歩くことを止め、今度は、少しでも陽かげを作るために、砂に穴を掘り、その中で、休んだ。  陽が落ちてから、彼は、歩き出した。  何処に向って、進んでいるのか、わからない。とにかく、歩かなければならない。  十津川は、頭の中に、ブビア共和国の地図を思い浮べた。  あの砦が、その中央あたりにあったとすれば、そこから国境まで、何キロほどか。一日、何キロ進めば、何日で、国境に着く。誰か、英語の出来る人間を見つけ、私は、日本人だ。日本大使館へ連れて行って欲しい。そう話す。助かるものなら、それで助かるだろう。  助からないのなら、死ぬだろう。  しかし、そんな計算が、いかに甘いものか、すぐ、悟らされた。  一日、何キロなど、とても、砂の中を、歩けはしないのだ。  水が、無くなり、パンも消えた。  だが、周囲には、砂以外に、何も見えない。容赦のない太陽が、十津川の顔や、腕や、足を焼き、のどの渇きは、彼を、発狂寸前に、追い込もうとする。 (ここで死ぬのか)  と、十津川は思った。  はてしない砂漠の向うに、妻の直子や、亀井刑事、西本刑事の顔が、浮んでは、消えた。  そして最後に、若い清水刑事の顔が、蜃気楼《しんきろう》のように、浮び上った。 (死んではいけない)  と、十津川は、思った。清水刑事の仇を、取るまでは、死ぬわけにはいかない。 [#改ページ]   第十九章 行 方 不 明      1  アフリカに出かけた十津川から、連絡が途絶えて、東京の捜査本部は、不安に包まれた。  外務省を通して、ブビア共和国に、問い合せて貰ったところ、回答は、次の通りだった。 〈ご照会の十津川省三氏は、九月二十一日に、入国したことが、確認されています。その後、砂漠の中に建設されている実験農場に行かれたようです。この実験農場は、日本の援助によって作られたもので、この農場の責任者(日本人)の話によれば、十津川氏は、一時間ほど、見学したあと、帰られたということであります。以上、ご報告致します〉  これだけでは、要領を得なかった。  更に、もう一度、照会すると、今度は、次のような回答が、駐日ブビア大使館から、寄せられた。 〈本国からの連絡によれば、十津川省三氏は、九月二十七日現在、ブビア国から出国しておらず、砂漠で、遭難したものと、思われます。十津川氏は、実験農場を見学したあと、砂漠を見たいといわれ、徒歩で、農場を出発されたあと、行方不明になっておられるからです。ブビア警察で、現在、捜索しておりますが、見つかっておりません。砂漠での遭難は、年間、三十名前後生じており、十津川氏のことも、心配されます〉  この回答で、捜査本部は、一層、憂色に包まれた。  亀井は、三上部長に、すぐ、ブビア共和国に行かせて欲しいといったが、許可されなかった。 「君は、ブビア共和国について、何の知識もないんだろう。そんな状況で、行っても、十津川君を見つけられるとは、思えん。それより、向うの日本大使館に頼んで、探して貰った方がいい」 「しかし、大使館といっても、職員は五人しかいないそうですし、その職員も、担当は、ブビアだけでなく、周辺の国も、受け持っていると、聞いていますが」 「それでも、君が行くよりは、いい筈だよ」  と、三上は、いった。  しかし、大使館からの情報も、頼りないものだった。  砂漠で遭難したらしいというだけで、どの辺りの砂漠なのか、本当に、自分から砂漠に、歩いて行ったのかも、わからないというのである。  亀井は、江崎周一郎のことを、調べて貰いたいと、申し入れたのだが、これについても、はっきりした回答は、寄せられなかった。  わかったのは、江崎は、ブビア共和国には、多額の寄附をしていて、VIP待遇を受けているということだけだった。  その江崎が、二十九日に、帰国したと知って、亀井は、西本刑事を連れて、会いに出かけた。  今のところ、十津川の行方を知る唯一の人間と思えたからである。  亀井の質問に対して、江崎は、微笑して、 「向うで、十津川さんと会い、立ち話をしましたよ」  と、あっさりいった。 「今、十津川警部が、何処《どこ》にいるか、ご存知じゃありませんか?」  亀井が、きくと、江崎は、首をかしげた。 「とっくに、帰国されている筈ですがね」 「それが、行方不明なのですよ。ブビアで、あなたに会ったあと、何処へ行ったか、知りませんか?」 「あの時は、確か、砂漠を見に行くと、いわれてましたよ、私にね。日本人は、砂漠というとロマンチックに考えるが、実際の砂漠は、危険だからと、注意したんですがねえ。ひょっとすると、遭難したのかも知れないなあ」 「これは、駐日大使館で貰って来たブビア共和国の地図ですが、どの辺の砂漠を見に行ったんでしょうか?」  亀井は、地図を、江崎の前に広げて、きいた。  砂漠は、黄色い色で、表現されている。その黄色の部分は、ブビア共和国の大部分を示していた。  江崎は、小さく唸《うな》り声をあげながら、地図を見ていたが、 「ごらんのように、砂漠は、隣接する他の国にも広がっています。砂漠には、明確な国境はないのですよ。十津川さんは、誤って、砂漠の中で、ブビア共和国の外に出てしまったんじゃありませんかねえ。もし、そうだとすると、十津川さん自身、意識していなくても、国境を、侵犯したことになりますからねえ」 「警部は、実験農場を見学しに行き、その帰りに、行方不明になったといわれているんです。その農場が、何処にあるか、知りませんか?」  と、西本が、きいた。 「ブビアは、石油も出ないし、他の地下資源もありませんから、農業に、力を入れていましてね。幸い、オアシスが、国内に、いくつかあるので、その周辺で、実験農業が行われているんですよ。十津川さんは、その一つを、見学されたんじゃありませんかね」  江崎は、他人事《ひとごと》みたいないい方をした。 「警部は、ブビアで、あなたに会い、じっくり話をした筈なんですがねえ」  と、亀井が、いった。  江崎は、笑って、 「なぜ、わざわざ、ブビアで、私と話し合うんですか? 東京で、いくらでも会えるじゃありませんか? 違いますか?」 「ブビアで、警部に、それ以外に、会われなかったんですか?」 「十津川さんが、その後も、ブビアに滞在していたことさえ知りませんでしたよ。それで、びっくりしているんです。十津川さんは、何しに、ブビアに滞在されていたんですかねえ」  江崎は、首をかしげて見せた。  亀井は、歯がみをしたが、いくら問い詰めても、江崎は、とぼけ通すだろう。遠く離れたブビアでの出来事だけに、強くいうわけにもいかないのだ。  第一、砂漠で、消息を絶ったという報告も、そのまま、信じていいかどうか、わからないと、亀井は、思ったりもする。 「江崎さんは、日本人の若者を、何人か、ブビアにやっているわけでしょう? 農業指導ということで」  と、西本が、きいた。 「私は、ただ、金銭的に、お手伝いさせて貰っているだけですよ」 「その若者たちに、警部を、探させて貰えませんか?」  西本は、じっと、江崎を見つめて、いった。 「いいでしょう。十津川さんの写真を送って、探すようにいいますよ」  と、江崎は、胸を叩くようにして、いった。      2  亀井と、西本は、江崎と別れると、顔を見合せた。 「あの野郎、とぼけやがって!」  と、亀井は、吐き捨てる感じで、いった。 「江崎が、警部を、どうかしたんでしょうか?」 「他に考えられるかね? 警部は、あいつに会いに、アフリカに行ったんだ」 「まさか、江崎が、警部を、殺したなんてことは、ないと思いますが──」  西本が、いうと、亀井は、眉をひそめて、 「縁起でもないことは、いいなさんな。警部は、無事だよ」 「そう思っているんですが──」 「何とかして、警部の消息を、つかみたいんだがねえ」  亀井は、祈るような眼をした。  自分が、刑事でなければ、江崎を捕えて来て、思いきり殴りつけ、無理矢理にでも、十津川の消息を、聞き出したいと思う。だが、刑事としては、それが出来ない。  捜査本部に戻ると、日下刑事が、亀井に、 「今、韓国にいる長谷部記者から、電話がありました。十津川警部を呼んでくれというので、留守だというと、また、掛けるといって、切ってしまいましたが」  と、いった。  普段なら、なぜ、用件を聞いておかなかったんだと、怒鳴りつけているのだが、十津川のことが気になって、 「そうか──」  と、肯《うなず》いただけだった。  亀井は、また、ブビア共和国の地図を広げていた。いくら地図を見ても、十津川が見つかる筈もないのだが、今、他に、何も出来ないのだ。 (砂漠か──)  と、思う。  江崎は、砂漠には、明確な国境線がないから、十津川が、迷い込んだのではないかと、いった。  江崎は、ブビアで、十津川とは、立ち話しかしなかったといっているが、これは、嘘に決っている。  十津川は、江崎に会うために、ブビアに行った筈だからである。  だが、人間は、ちらりと、本音を、いってしまうものでもある。とすると、砂漠は、本当かも知れない。それに、十津川が、砂漠の中の国境付近で、どうかしてしまったということも考えられる。いや、どうかしてしまうように、江崎は、ブビアで、十津川を罠《わな》にかけたのではないだろうか?  だが、今の亀井には、何も出来ない。それが、腹立たしいのだ。 「カメさん、電話です!」  と、大声で呼ばれて、亀井は、現実に引き戻された。  若い刑事が、受話器を持って、 「長谷部さんから、十津川警部にです」  と、いう。亀井は、手を伸ばして、受話器を受け取った。 「十津川さんですか?」  と、長谷部の声が、いった。 「警部は、今、留守ですが、私は、亀井です」 「ああ、亀井さんですか。それでは、十津川さんに、伝えて下さい。例の覚醒剤の流れですが、東京の365という店に、韓国から送られていたことがわかりました」  長谷部が、勢い込んだ調子で、いった。 「東京の365という店?」 「そうです。どんな店かはわかりませんが、探してくれませんか」 「それが、川西茂男と、つながっているということですか?」 「そうです」 「調べてみましょう。しかし、あんたは、大丈夫なんですか?」  と、亀井は、きいた。 「わかりませんが、今、いいところへ来ているんです。こちらのボスに、会えそうなんですよ。韓国名だが、実際には、日本人だという男です」  長谷部の声は、弾《はず》んでいる。それだけに、亀井は、余計に、心配になってきた。捜査でも同じだが、事件の核心に近づいた時が、一番、危険なのだ。 「とにかく、気をつけて下さい」  と、亀井は、いった。 「注意はしていますよ。それより、今いった365という店を、調べて下さい」  と、長谷部はいい、あわただしく、電話を切ってしまった。  亀井は、小さく首を振りながら、西本と、日下に向って、 「東京にある365という店を調べてくれ。何処にあって、何をしている店かだ」 「365ですか?」 「そうだ。まず、電話帳を見ろ。のってるかも知れん」  と、亀井は、いった。  西本と、日下は、電話帳を持ち出して、ページをくっていたが、 「個人の方には、のっていませんね。職業別の方は、何の仕事かわからないと、引きようがありません」  と、西本が、いった。 「個人の方は、経営者の名前になっているんだろう。だから、職業別で、調べるより仕方がないな。365というような名前をつける会社というのは、どんな職種だと思うね?」  と、亀井が、二人に、きいた。 「大企業じゃないことだけは、確かですね。パチンコ屋なんかは、ふさわしいんじゃありませんか」  日下が、いう。 「それなら、まず、パチンコ店を、調べてみてくれ」  と、亀井は、いった。  西本と、日下は、せわしく、電話帳を調べていたが、 「都内のパチンコ店には、ありません」 「じゃあ、他の職業だ」 「外食産業なんかどうでしょう? 三六五日、一日も休まずにやっているということで。或いは、二十四時間営業のスーパーということも、考えられます」 「そう思うんなら、どんどん、調べてみてくれよ」  と、亀井は、大きな声で、いった。十津川の消息がつかめないことで、亀井は、自分でも気付かずに、いらだっているのだ。  西本と日下は、小さく首をすくめてから、部屋の電話帳と、格闘を、再開した。  一時間を過ぎてから、日下が、突然、「見つけたぞ!」と、声をあげた。 「コンビニエンスストアかね?」  亀井が、きくと、日下が、手を振って、 「違います。スーパーには、365という店名は、ありませんでした。あったのは、池袋のクラブです。NSビルの3Fとありますから、多分、雑居ビルの中にあるんだと思います」 「今夜、そのクラブに、行ってみようじゃないか」  と、亀井は、いった。      3  午後七時を過ぎてから、亀井は、日下刑事を連れて、池袋にあるクラブ「365」を、訪ねてみた。  日下が、いった通り、五階建の雑居ビルの三階にあった。  小さな店だった。  早い時間のせいか、店内に、客の姿はなかった。  カウンターの他に、テーブルが、三つほどの店である。若いホステスと、三十二、三歳のマネージャー風の男が、退屈そうに、カウンターを挟んで、話している。  亀井と日下が、入って行くと、ホステスが、「いらっしゃい」と、声をかけて来た。  二人は、カウンターに腰を下してから、ビールを注文した。 「ママさんは?」  と、亀井が、出されたビールを、一口飲んでから、ホステスに、きいた。 「九時頃に出て来るわ。いつも、そう」  と、ホステスは、ニコニコ笑いながら、いった。  バーテン風の男は、離れたところで、退屈そうに、亀井を見ている。 「ママさんて、どんな人かね?」 「どうして?」 「美人で、楽しい人だって、聞いたんでね」  と、亀井は、いった。 「きれいだけど、楽しいかなあ。あんまり、口を利かない人だから」  と、ホステスが、いう。 「無口なの?」 「ええ」 「何処の生れ? 無口というと、東北の生れかね? 私も、青森の生れなんだが」  亀井が、きくと、ホステスは「平山ちゃん」と、バーテンに声をかけて、 「ママは、何処の生れだった?」  と、きいた。  平山と呼ばれたバーテンは、じろりと、ホステスを睨んで、 「つまらないことを、喋《しやべ》りなさんな」 「どうしても、知りたいんだがね」  と、亀井が、横からいい、バーテンの眼の前に、警察手帳を、突きつけた。 「刑事さんなのォ」  ホステスは、素とん狂な声をあげたが、バーテンの平山の方は、表情一つ変えず、 「刑事さんが、何の用です? 別に、うちは、変なことはしてませんよ。銀座みたいに、ぼることもしてませんしね」 「だから、ママさんのことを、聞きたいんだよ。何処の生れかね?」 「知りませんね」 「知らない? 嘘をつくなよ!」  と、若い日下が、怒鳴った。それを、亀井は、手で制して、 「ママの出身地を聞くのに、令状を持って来なければいかんのかね?」  と、平山に、いった。  平山は、いくらか、穏やかな表情になって、 「本当に知らないんですよ。九州の生れだと聞いたことがありますが、本当かどうか、わかりませんからね」 「この店の本当の持主なのかね? それとも、本当のオーナーは、別にいるのかね?」 「ちゃんとしたオーナーなんじゃありませんか」  と、平山は、いった。 「パトロンは?」 「さあ、私は、知りませんよ」 「じゃあ、よく来る客のことを教えてくれないか。常連客が、何人か、いるんだろう?」 「そりゃあ、いらっしゃいますが、お客のことは、喋れませんよ。それが、礼儀ですから」  と、平山が、いった時、ホステスが、三人、顔を出した。一人は、お客と同伴である。 (小さい店なのに、ホステスは多いんだな)  と、亀井は、思いながら、 「景気は、どうかね?」  と、質問を変えた。 「まあまあ、といったところじゃありませんか」  と、平山は、いった。  ママが、やって来たのは、九時かっきりだった。その頃には、客も、亀井たちの他に、数人になっていて、店は、一杯だった。  バーテンの平山が、亀井と日下を、刑事だといって、紹介した。 「あなたの名前は、野原みや子でしたね?」  と、亀井が、きいた。  池袋署の風紀係に電話して、調べて貰ったのだ。 「ここでは、かおりで通っていますわ。私も、その方が、実感があります。いわれ慣れていますから」  と、ママは、いった。 「じゃあ、かおりさんと、呼びましょう。戸籍調べみたいになりますが、どこの出身ですか?」  と、亀井は、きいた。 「福岡の生れですけど、それが、何か?」  と、かおりは、きき返した。 「年齢は、きいちゃいけませんかね?」 「いいえ。でも、私が、三十歳といっても、それが、本当か嘘か、わからないでしょう?」  かおりは、笑った。 「確かに、その通りだ」  と、亀井も、笑ってから、 「向うにいるホステスだけど」  と、四人の中の一人を、眼で指した。 「あの娘《こ》が、何か?」 「日本語が、あまり上手《うま》くないね。韓国の人ですか?」 「ええ。ここに、呼びましょうか?」 「いや。名前は?」 「ここでは、リエちゃん。李恵と書いて、向うの読み方では、何というのかわからないけど、私は、日本式に、リエと、呼んでるんですよ」  と、ママは、いった。 「前にも、韓国の女性を、ホステスとして、傭《やと》ったことは?」  と、亀井は、きいた。 「ええ。最近は、たいていの店で、韓国の人とか、フィリッピンの人を、入れてますよ。ちゃんとしたルートで傭っているから、法律に触れることはしてませんよ」  ママは、眉をひそめて、いった。 「そんなことは、いっていません。第一、われわれは、捜査一課の刑事です」 「捜査一課って、殺人事件を扱う──?」 「そうです」 「私の店が、そんな恐しい事件と、関係があると、思っていらっしゃるんですか?」 「いや、そんなことは、思っていませんよ」 「じゃあ、何を調べに、いらっしゃったんですか?」 「正直にいいましょう。この店の常連客の中に、ひょっとして、われわれが探している人間がいるのではないかと、思っただけです」  と、亀井は、いった。 「そんな方は、いませんわ。みんな、いい方ばかりですもの」 「あなたが、そういいたい気持は、わかりますが、人間というものは、わかりませんからね。常連客の名前を、いってくれませんか?」  と、亀井は、頼んだ。 「いっても構いませんけど、名前だって、このお店の中だけで使っていらっしゃるのかも知れませんしね。お客だって、ホステスだって、お店の中じゃ、嘘のつき比べですわよ。平社員の男の方だって、ここでは、社長だっていって、ホステスは、それを、信じたふりをしますしねえ。そんな嘘でも、構いませんの? もし、構わなければ、うちのお客は、社長さんばかりですけど」  ママがいうと、バーテンが、笑い声を立てた。  ママも、亀井を、馬鹿にしたような眼になっている。  亀井が、言葉に窮して、黙ってしまった時、笑っていたママの顔から、急に、笑いが消えた。  亀井が、おやッと思い、ママの視線を追うと、丁度、店に、新しい客が入って来たところだった。  背の高い外国人だった。肌の色は茶褐色で、どうやら、アフリカ系の黒人の感じである。  上等な三つ揃いの背広姿で、お洒落《しやれ》な感じだった。年齢は、四十歳前後だろう。  ママが、あわてた様子で、その男の傍へ駈け寄り、何かいっている。  相手は、ママの肩越しに、亀井たちを見てから、店を出て行ってしまった。  ママは、ホステスの一人を呼んで、何かいってから、亀井たちのところへ、戻って来た。 「どうしたんです?」  と、亀井は、興味を持って、きいた。  ママは、小さく肩をすくめて、 「いえねえ。あのお客さん、ツケが溜ってるんですよ。それなのに、平気で飲みに来るんで、困っているんです。日本語も、よく通じないし──」 「ホステスさんに、何かいいましたね?」 「あの娘《こ》が、担当ということになっているから、何とかしなさいと、叱ったんですよ。溜ってるツケは、あの娘の責任ですからね」 「なかなか、厳しいもんですねえ」 「そりゃあ、この商売は、楽じゃありませんわよ」  と、ママは、いい、やっと、笑顔が戻っていた。  亀井は、ビールの代金を払い、 「行こうか」  と、日下を、促した。 「しかし、まだ、常連客の名前を聞いていませんよ」 「いいんだ。ママさんもいってたじゃないか。こういう店のお客は、本当のことをいう筈がないって。そんな嘘の話を聞いても、参考にはならんよ」 「しかし──」  と、まだ、日下が、納得できない顔をしているのを、亀井は、引きずるようにして、外へ出た。  雑居ビルを出たところで、日下が、眉を寄せて、 「今日は、どうしたんですか?」 「何がだ?」 「日頃のカメさんらしくないじゃないですか。粘りのカメさんが、早々と、退却してしまうなんて」 「これでいいんだよ」 「あのママさんの言葉を、まともに受け取ったんですか?」 「客は、嘘ばかりつくから、話しても仕方がないというママさんの言葉のことか?」 「ええ」 「ぜんぜん、信じてなんかいないよ。あのママさんは、水商売が長いと思うね。彼女なら、客の嘘なんか、簡単に、見抜いてしまうさ。それに、常連客なら、本当のことだって、喋っている筈だよ」 「それなら、なぜ?」 「三つ揃いの背広でやって来た男がいたろう。あわてて、ママさんが、追い返した男だ」 「あれは、アフリカ系の黒人だと思いますが」 「胸にバッジをつけていた」 「そうですか? 気がつきませんでしたが」 「あれは、ブビア共和国の国旗だよ」  と、亀井が、いった。 「本当ですか?」 「間違いないさ。警部が行方不明になってから、毎日ブビアの地図と睨めっこをしてるんだから、絶対に間違いないさ」  亀井は、きっぱりと、いった。 「すると、どういうことになるんですか?」 「あの男は、多分、ブビア共和国の大使館の人間だ」 「というと、税関職員がいっていた──?」 「そうだよ。外交特権を利用して、韓国や、東南アジアから、覚醒剤を、密輸していると思われる男さ」 「その男が、ツケを溜めていて、払わないというのは、信じられませんね」 「当り前だ。私たちに会わせたくないから、あわてて、追い返したんだよ。つまり、あのクラブが、覚醒剤の密輸と、関係があるということさ」  と、亀井が、いった時、クラブ「365」のホステスが一人、せかせかした足どりで、出て来た。 「ママさんが、何かいいつけていたホステスですよ」  と、日下が、小声で、いった。  亀井と、日下が、見ているとも知らずに、彼女は、小走りに、暗い路地を歩いて行き、五、六十メートルほど離れた場所に駐車している車に、乗り込んだ。  外交官ナンバーをつけた車だった。運転席にいたのは、さっきの客である。  車は、走り去った。 「ツケの取り立てとは、とても、思えませんね」  と、いって、日下が、笑った。 「車のナンバーは、覚えてるか?」 「もちろん、覚えました」 「念のために、そのナンバーが、ブビア共和国大使館のものかどうか、確認してくれ」 「わかりました」 「それから、あの男の人相や、身体の特徴を箇条書きにして、成田空港の例の税関職員に、確認してみてくれないか」 「すぐ、やってみます」  と、日下は、肯いた。  翌日、亀井のいった二つを、確認のために、日下は、動き廻った。  その結果は、亀井の予想した通りだった。  昨夜目撃した車は、ブビア大使館の車だったし、あの男は、成田空港の税関職員が、口惜しがりながら、見逃した男と、同一人と、確認された。 「多分、365というあのクラブの本当のオーナーは、江崎周一郎だと思うね」  と、亀井は、日下や、西本に、いった。 「私も、そう思います」  と、二人も、いった。  収穫は、あった。  だが、十津川の消息は、いぜんとして、つかめないままだった。 [#改ページ]   第二十章 失われた記憶の中で      1  地平線が、暗くなり、遠くから、雷鳴が聞こえて来た。  空は、どんどん、暗くなっていく。一瞬、青白い稲妻が、走り、砂漠の稜線を、くっきりと、浮び上らせる。次の瞬間、今度は、夜のような暗さが、周囲を、押し包む。そして、また、青白い稲妻。  その間隔が、次第に短く、雷鳴が、ますます大きくなったとみる間に、轟然《ごうぜん》と、大粒の雨滴が、落ちて来た。  建物も、樹々の梢もない、遮るものの皆無な砂漠の雨である。  乾き切った砂は、貪欲に、降り注ぐ雨水を吸い取っていったが、激しい雨の量を、一度に呑み込めなくなってくると、忽《たちま》ち、砂漠のあちこちに水溜りが生れ、それが、川になって流れ始めた。  倒れて、動かない十津川の身体にも、容赦のない激しさで、雨が降り注いだ。彼の身体のまわりに、水が溜り始め、顔を濡らしていく。  その息苦しさに、十津川は、顔をあげ、のろのろと、起きあがった。  髪の毛も、服も、ずぶ濡れになり、その寒さに、十津川は、身体をふるわせた。  掌で、雨を受け、それを飲む。生理的なのどの渇きは消えていったが、十津川は、今、自分が、何処《どこ》にいるのか、わからなかった。  三十分あまり、雨は、滝のように降り注いだあと、十津川の頭上を通り過ぎていった。  再び、ぎらぎらする太陽が顔を出し、雨雲も、雷鳴も、稲妻も、急速に、遠去かっていく。  十津川は、本能的に、また、歩き出した。歩いていないと、雨に打たれた寒さで、死んでしまいそうな気がしたためかも知れない。  またのどが渇いてくると、十津川は、今の豪雨で生れた水溜りの縁にひざまずき、手ですくって、飲んだ。  立ち上り、再び、歩き出す。  強烈な太陽が、驚くほどの早さで、水溜りを消し、流れ出した川を消していく。いや、飢えた砂漠が、蒸発する前に、必死で、水分を、取り入れていくのかも知れない。  十津川の周囲は、元の砂漠に戻ってしまった。  十津川は、歩く。  一時間。二時間。いや、時間の観念は、とうになくなっている。  前方に、突然、何かが見えてくる。ゆっくりと、何かが動いている。十津川は、立ち止まって、眼をこらす。あれは、らくだではないか。一頭、二頭。らくだの群れだ。背中には、人間が、乗っている。  らくだの隊商か?  それなら、助かるだろう。十津川は、前のめりになって、らくだの列に、近づこうとする。  だが、突然、前方のらくだの列は、消えてしまった。蜃気楼《しんきろう》だったのだ。  絶望が、十津川に、襲いかかってくる。容赦のない暑さが、彼から、思考力を奪っていく。  足が動かない。頭も働かない。 (おれは、──警視庁──捜査一課の──)  十津川の身体が、ゆっくりと、砂の上に崩れおちていく。  今度は、雨は、来そうもない。      2  やたらに、やかましい。 (死後の世界は、静かな筈だが、なぜ、こんなに、騒々しいんだ?)  十津川は、疲れ切っていて、そのやかましさが、頭に、ひびく。 「静かにしてくれ!」  と、叫んだ。  その叫び声で、意識を取り戻した。  眼を開ける。  何人もの顔が、自分を、のぞき込んでいる。どれも異邦人のような顔に見える。  何か口々に、叫んでいるのだが、十津川には、意味が、わからない。 (ここは、何処なんだ?) (おれは、何をしてるんだ?)  まるで、頭の中が、ぐじゃぐじゃになったみたいで、何も考えることが出来ない。  水が、流し込まれた。続いて、何か、白く、どろりとしたものが、与えられた。  十津川は、のどに詰らせて、何度も、吐き出した。  それがすむと、十津川の身体に、毛布がかけられ、のぞき込んでいたいくつもの顔は、彼の眼の前から、消えた。  十津川は、疲れ切り、眼を閉じて、眠った。  次に、眼を開くと、十津川は、籠《かご》のようなものに乗せられて、ゆすられていた。らくだに乗せられて、何処かへ、運ばれているのだ。  時々、水と、例の白く、どろりとしたものが与えられた。  二日間、そんな状態が続いたあと、小さな町に着き、十津川は、病院に入れられた。  天井で、時代おくれの扇風機が、廻っている。  簡易ベッドに、横たえられた十津川に、医者が、英語で、話しかけた。 「君は、何処から来たんだ? 何処の人間だね?」 「私は、日本人だ」 「日本人が、なぜ、あんな砂漠の真ん中にいたのかね?」 「私は──」  十津川は、答えようとして、言葉を失ってしまった。頭の中が、からっぽになってしまった感じで、何も、思い出せないのだ。  十津川は、狼狽《ろうばい》した。 (おれが、砂漠にいたって?) (なぜ、砂漠になんかいたんだ?) (なぜ、ここにいる? ここは、何処なんだ?) 「ここは、何処だ?」  と、十津川は、日本語で、きき、あわてて、英語で、いい直した。 「────」  と、医者は、町の名前らしきことを、いった。 「それは、何という国の町なんだ?」 「チャドとブビアの国境の近くだよ。チャドに入っている」 「なぜ、私は、チャドにいる?」 「覚えてないのかね?」  と、医者が、十津川の顔を、のぞき込むようにして、きいた。 「覚えていない。何があったのか、教えてくれ!」  と、十津川は、叫んだ。  医者は、哀れむように、十津川の額に、手を当てて、 「私にも、何があったか、わからないんだよ。君は、砂漠の真ん中に倒れているところを、助けられて、ここへ、運ばれて来たんだ。パスポートも、その他、身分を証明するようなものも、持っていない。名前は?」 「名前?」 「ああ、君は、日本人だといった。日本人で、名前は、何というのかね?」 「トツガワ。トツガワだ」 「チガワー?」 「トツガワ。トツガワ」  と、繰り返した。が、医者は、日本語としては、意味のわからない言葉を、繰り返すばかりだった。  十津川は、ベッドの上に起き上ると、テーブルの上のボールペンをつかみ、壁のカレンダーに、ローマ字で、TOTSUGAWAと、書いた。 「私の名前だ」 「身体は、大丈夫なのかね?」  と、医者が、きいた。 「がたがただが、大丈夫だ。それより私は、なぜ、ここにいるのか知りたい」  と、十津川は、いった。  医者は、肩をすくめた。 「それは、私だって、知りたいんだよ。日本人の君が、アフリカに、何しに来たのかね? 思い当ることは、ないのかね?」 「わからない。何か大事なことなんだと思うが、何も、思い出せないんだ」 「少し、休みなさい。そうすれば、思い出すかも知れないよ」  医者は、微笑し、十津川を、ベッドに寝かせて、病室を出て行った。  十津川は、しみだらけの天井に、眼をやった。 (おれは、十津川省三だ。日本人だ。そして、おれは──)  そのあとが続かない。なぜ、アフリカにいるのか、なぜ、この病院にいるのか。頭の中が、混濁してしまって、思い出せない。なぜ、思い出せないのか。 (1プラス1は、2)  そんなことも、口の中で、呟《つぶや》いてみる。正常に働くので、一安心したが、記憶だけが、甦《よみがえ》って来ない。  いらだってくるのは、記憶が戻らないだけでなく、自分が、何か大事な用事があって、アフリカに来たに違いないという気がするからだった。  医者は、砂漠に倒れていたところを、助けられ、この病院に運ばれたのだといった。なぜ、砂漠にいたのだろうか? それさえ、わからない。 (日本へ帰れば、何かわかるかも知れないのだが)  と、思う。  しかし、パスポートもなしに、アフリカから出られるだろうか?  ポケットを、探ってみた。財布もない。電話を掛けるにも、これでは、掛けられない。日本大使館にも、これでは、連絡が、取れないのではないか。  さっきの医者が、戻って来た。 「エンジャメナの日本大使館に、電話しておいたよ」  と、医者は、英語で、いった。 「それで、反応は?」 「わからんね。日本人は、いつも、慎重だからね」  と、医者は、笑った。 「大使館員は、ここへ、来てくれるのかね?」 「さあね。何しろ、エンジャメナから、ここは、遠いからね」 「私のことは、よく話してくれたのか?」  と、十津川が、きくと、医者は、肩をすくめて、 「君の名前と、砂漠で倒れていたことだけは、いっておいたよ。だが、他に、何もいえないだろう? 君自身が、何も覚えていないんだから」 「エンジャメナという町まで、ここから、どのくらいあるんだ?」 「五、六百キロかね」 「飛行機は、飛んでいないのか?」 「ここからは、飛んでいないよ。エンジャメナへ行くつもりなのかね?」 「ああ、日本へ帰らなければならないんだ。私は、大事な仕事をしている途中だったらしいのだ。それを知らなければならない」  と、十津川は、いった。 「無理だね」 「なぜ? 車はないのか?」 「一台だけあるが、その車は、この病院で使うから、君を、送るのに、使うわけにはいかない」 「しかし、私の他に、病人なんかいないじゃないか」 「病人は、沢山いる。ただ、この国の国民は、みんな貧しくてね。折角、フランスの援助で出来た病院なんだが、医者にかかれないんだ。何しろ、国民一人の所得が、年百五十ドルしかないからね。それで、私は、車で、村人たちの家を廻る。それなら、みんな、医者が、勝手に診に来るんだと思って、安心して、私に、診させるんだ。だから、唯《ただ》一台の車を、君のために使うわけにはいかないんだよ」 「それなら、なぜ、私を、ここに入院させたんだ? 私は、一ドルも持ってないよ」 「隊商が、勝手に運んで来てしまったからだよ。まさか、君を、もう一度、砂漠まで運んで行って、放り出すわけにもいかんだろう」 「これから、私は、どうなるんだ?」 「さあね。それは、日本大使館が、どう考えるかによるね。君が、日本で、大事な人間なら、向うから、すぐ会いに来るだろう。そうでなければ、ここにいるより仕方がない。君は、医学的知識は?」 「無いよ」 「それでは、診察を手伝って貰うわけにもいかないな」  医者は、本当に、当惑した表情になった。  十津川は、絶望に襲われた。ここにいては、思い出せるものも、思い出せないのではないか。  身体は、回復しても、記憶を失ったまま、ここで、死ぬのではないのだろうか? その思いが、彼を、絶望に追いやっていくのである。      3  亀井は、困惑していた。  十津川が、行方不明になってから、彼がいての自分だということを、つくづく、思い知らされた。  全力を尽くしているのだが、どうしても、自信が、持てないのだ。十津川が、傍にいると、どれほど難しい局面に立たされても、何処かに、安心感があった。  それがない。絶えず、不安感がつきまとってくる。  その上、こんな時に限って、難しい問題が、次々と、起きてくるものなのだ。  その一つが、韓国に行っている長谷部記者のことだった。  長谷部までが、行方不明になってしまったのである。  突然、テレビのニュースで報道されて、亀井を、驚かせた。  十月一日から、長谷部は、ソウルのRホテルに宿泊していたが、三日の朝、外出し、そのまま、ホテルに戻らないというのである。  長谷部が勤めている函館の新聞社では、帰国する予定の三日になっても帰らないので、宿泊先のRホテルに問い合せたところ、行方不明と、わかったという。 〈日本人記者、ソウルで行方不明!〉  と、新聞にも、大きくのった。  最近、日本人が、世界の何ヶ所かで、殺されたり、行方不明になったりしているので、マスコミも、大きく、取り上げたのだろう。  ソウル警察も、捜査に乗り出したと、ニュースは、伝えていた。  もう一つは、成田空港の税関からの連絡だった。例の村上という税関職員からである。 「妙なことがあるので、念のために、お知らせしないとと、思いまして」  と、村上は、電話口で、遠慮がちに、いった。 「どんなことですか?」  と、亀井が、きく。 「問題のあったブビア共和国のことです」 「また、大使館員が、覚醒剤の密輸ですか?」 「いや、それじゃないんですが、このところ、毎日、ブビア共和国から、日本人の青年が、帰国しているんです。団体で帰国するのなら、まだ、わかるんですよ。団体で、旅行したということでね。ところが、毎日一人か、二人、帰国しています。どの若者も、逞《たくま》しく、陽焼けしていましてね」  と、村上が、いう。 「毎日ですか?」 「そうです。私が、覚えているだけでも、九月三十日一人、十月一日二人、十月二日一人、十月三日一人、十月四日二人です」 「全部で、七人ですか?」 「私が、覚えているだけですから、実際には、もっと多いと思います。今日五日も、また、ブビア共和国から、同じように陽焼けした青年が帰って来ると、思いますね」 「同じ経路で?」 「いや、さまざまです。カイロ経由もあれば、ヨハネスブルグ経由もあります。いったんパリに行き、そこから、成田というケースもありますが、全て、出国したのは、ブビアです」 「調べてみます」  と、亀井は、いった。  すぐ、西本と、日下の二人を、江崎の別荘に向わせた。ブビアから帰国する青年たちは、江崎の別荘に行くに違いないと、思ったからである。  亀井自身は、一人で、成田空港へ出かけて、まず、税関職員の村上に会った。  丁度、同僚と交代したところで、空港内のティルームで、話し合うことが出来た。 「何となく、薄気味悪くて、お電話したんですよ」  と、村上は、いった。 「薄気味悪いですか?」 「みんな二十代の青年で、一様に陽焼けして、眼をきらきら光らせていますからね。何か、使命感に燃えているみたいで、気味が悪いんです」 「何か持っていましたか?」 「機内持ち込みが出来るぐらいの大きさのショルダーバッグだけです。どの青年も」  と、村上は、いった。 「麻薬類は?」 「調べましたが、持っていません。武器もです。全員の持ち物を、私一人が調べたわけじゃありませんが、私が扱ったのでは、着がえと、洗面具、その他、身廻品で、法律に触れるものは、何も入っていませんでした」  と、いってから、村上は、腕時計に眼をやり、 「間もなく、カイロからのエジプト航空が到着します。また、一人、乗っているかも知れません」  と、いった。  亀井は、村上と別れて、送迎デッキに、足を運んでみた。  一二時〇五分着が、三十分ほど遅れている。やがて、エジプト航空のマークをつけたボーイング747が、姿を見せた。  亀井は、乗客出口の方へ、歩いて行った。  三十分ほどして、エジプト航空の乗客が、出て来た。  週二便なので、満席だったらしく、乗客が多い。  だが、村上のいっていた青年は、すぐわかった。十九時間以上のフライトで、どの乗客も疲れた表情をしているのに、彼だけは、生き生きとした表情をして、眼を光らせていたからである。  亀井が、十津川と一緒に会ったことのある星野でもないし、木原でもなかったが、今、ゆっくりと、出口に向って来る青年は、あの二人によく似ていた。顔や、背恰好がというよりも、その青年の持っている雰囲気だった。 (若い兵士の感じだな)  と、亀井は、思った。  今、彼は、ショルダーバッグを肩から下げていて、手には、何も持っていないのだが、銃を持てば、そのまま、兵士という感じだった。  木原の時は、江崎が迎えに来ていたが、今日は、その気配はない。  青年は、タクシーに乗り込んだ。  亀井は、尾行はしなかった。どうせ、行先は、江崎の別荘と、思ったからである。  ブビアには、江崎と関係のある日本の若者が、五、六十人はいると、聞いたことがあった。全員が、向うで、農業技術の指導をしているということだったが、十津川は、信じていなかった。  どうやら、その青年たちが、一斉に、帰国を始めたらしい。  それも、一度にではなく、一人、二人と、帰国している。  なぜ、ばらばらに、帰国しようとしているのだろうか?  亀井は、もう一度、村上に会った。  さっき、別れる時、ブビアから、何人の青年が帰国しているか、調べてみると、いってくれたからである。  会うと、村上は、一枚のメモを、見せてくれた。 「一日に一人か二人といいましたが、実際には、もっと、多かったようです。私以外の職員も、確認していますから。そこに書いてあるのが、税関職員全員が、確認したブビアからの最近の帰国者の数です。あの国には、まだ、日本の商社員が行っていませんから、そこにある人数は、全部、例の青年たちと思っていいと思います」  と、村上は、いう。 九月二十九日 三人 〃 三十日  四人 十月一日   二人 〃 二日   五人 〃 三日   二人 〃 四日   三人 「これで、十九人です。今日、カイロ発のエジプト航空で一人、帰国したから、二十人です」  と、村上は、いった。 「他を経由して、今日中に、帰って来る可能性もありますね?」 「今までのことを考えると、大いにありますね。パリ経由で、帰国した青年もいますから」 「その中《うち》に、何十人にもなってくる」 「何をしに、戻って来るんですかね?」 「わかりません」 「十津川警部さんは、何といっておられるんですか?」 「それが、ブビアに行ったまま、行方不明になっているんです。外務省を通じて、調べて貰っているんですが、全く、消息がつかめません」  亀井は、正直に、いった。 「それは、大変ですね。十津川さんが、ブビアで、行方不明になったことと、あの青年たちの五月雨《さみだれ》的な帰国とは、何か、関係があるんでしょうか?」  と、村上が、きく。 「わかりませんが、何か企《たくら》んでいることだけは、確かだと思っています」  と、亀井は、いった。  村上には、引き続き、ブビアからの帰国者を、チェックしてくれるように頼んでから、亀井は、捜査本部に、戻った。  つけっ放しにしてあるテレビが、韓国で行方不明になった長谷部記者のその後を、報道していた。  亀井は、そのニュースを見た。ニュースとしてというより、午後の芸能ゴシップのような扱い方だった。  ソウルに飛んだレポーターが、現地から、報告している。  ──その後、わかったことを、報告します。Rホテルに泊った長谷部さんのところには、何度か、日本人と思われる男から、電話が入っています。交換手の話では、中年の男の声で、自分は、ナカジマだが、長谷部さんにつないでくれと、いったそうです。長谷部さんは、そのナカジマという男に、会いに出かけたのではないかと、思います。  ここの警察も、その線で調べているみたいです。 「Rホテルを出てからのことは、何もわからないのですか?」  と、ニュース・キャスターが、画面のレポーターに、話しかける。よく見るテレビの形である。  ──それがですね。新しい発見がありました。長谷部さんは、ホテルの前で、タクシーを拾っているんじゃないかと思って、その辺を流すタクシーに、片っ端から、当ってみたんです。そうして、とうとう、見つけましたよ。長谷部さんが乗ったタクシーが、見つかったんです。そのタクシーに乗って、走ってみました。  この大げさないい方も、テレビ的なのだろう。画面が、走るタクシーからのフィルムになった。  ──今、映っていると思いますが、有名な漢江を渡りましてね。これから、ロッテ・ワールドに向うところです。日本の観光客もよく行くし、こちらの若者も、よく行くところです。走っているのは、韓国製の車ばかりですね。このタクシーも、もちろん、韓国の国産車です。前方に、大きな建物が見えますね。その前が、広い駐車場になっていて、観光バスも、とまっています。ここが、ロッテ・ワールドです。運転手の話によると、長谷部さんは、ここで、タクシーを降りたそうです。その時刻は、午前十一時少し前だったといっています。 「そこで、誰かに会うことになっていたんだろうか?」  ──そう思いますね。長谷部さんは、タクシーの中で、しきりに、腕時計を見ていたといいますから、会う時間も、決っていたんだと思いますね。 「ロッテ・ワールドに着いてからのことは、何かわかりましたか?」  ──それなんですが、長谷部さんの写真を持って、ロッテ・ワールドの中をきいて廻りました。ここには、いろいろなものがありましてね。ディズニーランドを小さくしたような遊園地もあるし、デパートもあれば、レストランもあります。日本人もよく来るんで、長谷部さん一人を、覚えてくれている人は、なかなか、見つからないんです。或いは、この駐車場で会って、別の場所に行ったのかも知れないんです。 「では、引き続いて、長谷部さんの足跡を、追ってみて下さい」  それで、終りだった。少しは、進展しているようでもあり、全く、何の進展もないようでもある。  更に、一時間後のニュース・ショーでは、今度は、韓国のソウル市警の発表が、報じられた。  それによると、やはり、長谷部は、Rホテルを出たあと、タクシーで、ロッテ・ワールドに向っている。  しかし、長谷部は、ロッテ・ワールドの中には入らず、その駐車場にとめてあった車に乗り込んだようだという。  たまたま、近くにとまっていた観光バスの運転手が、目撃したのだと、ソウル市警の警部が、日本人記者たちに、説明する。 「彼は、その日本人が、タクシーから降りると、すぐ、近くにとまっている白い車に乗りかえたので、おかしなことをするなと思って、見ていたといっています」 「その白い車には、誰か乗っていたんですか?」  と、日本人記者が、質問した。 「もちろん、運転席に人がいて、すぐ、出発して行ったようです。運転していたのは、背広姿の男です。車は、白の現代《ヒユンダイ》で、ナンバーは、わかりませんが、レンタ・カーの可能性があります」  と、朴という警部が、いう。 「すると、長谷部さんは、ロッテ・ワールドには、入らなかったんですね?」 「入っていません。彼が乗り込んだ車は、すぐ、駐車場を出て行ったようですから」 「その車は、見つかりそうですか?」 「今、全力をあげて、探しています」  と、朴警部が、いった。  そのニュースが終ってすぐ、西本と日下の二人が、電話で、連絡して来た。 「間違いなく、江崎の別荘には、若者たちが、集まっていますね」  と、西本が、いった。 「見たのかね?」 「姿は見ませんが、急に、食料品の購入が、増えています。また、野菜を届けた店員の証言では、若い男の声が、しきりに聞こえたといっています」 「まさか、銃声を聞いた人間は、いないんだろうね?」 「それは、ありません」 「今日も、一人、成田に着いているんだが」 「ついさっき、一人、タクシーで、着いていますから、その男かも知れません」  と、日下が、いった。 「別荘の中で、連中は、何をしているのかな?」 「今夜にでも、忍び込んで、調べてみますか?」  と、西本が、きいた。 「いや、それは、止めておいてくれ」  と、亀井が、いった時、三上部長が、顔をのぞかせて、 「亀井君!」  と、大声で、呼んだ。  亀井が、電話を切って、飛んで行き、 「何でしょうか?」  と、きいた。 「アフリカのチャドで、十津川君らしき男が、見つかったらしい」  と、三上が、甲高い声を出した。 [#改ページ]   第二十一章 警  告      1  チャドの首都エンジャメナにある日本大使館に、東京から、国際電話が入った。  すぐ、十津川という日本人に会いに行って、確認せよという指示である。その中には、東京の警視庁捜査一課の十津川という警部が、アフリカのブビア共和国へ出かけたまま、消息を絶っており、果して、同一人かどうかも確認せよという言葉もあった。  大使館員の増田は、すぐ、ブビアとの国境沿いの村にある病院に向った。  飛行機と、車を乗り継《つ》いで、といっても、旧式のプロペラ機と、オンボロジープである。  早朝に出発して、夜に、やっと、目的の病院に着くことが出来たが、増田の着ている背広は、汗と、しわで、よれよれになってしまった。  病院には、フランスの援助で出来た旨の、書かれたプレートが、取りつけてあった。増田は、院長に案内されて、奥の病室で、トツガワと名乗っている日本人に、会った。  大使館には、ファックスで、十津川警部の顔写真が、送られて来ていた。ベッドに腰を下している男は、その写真に、よく似てはいたが、うす汚れたワイシャツ姿で、顔には、陽ぶくれの痕《あと》があったりして、うかつには、断定できない感じだった。  それに、医者の話では、砂漠に倒れているところを、隊商に助けられたのだが、記憶喪失に陥っているという。  増田が、書記官の肩書のついた名刺を渡すと、男は、しっかりと見て、 「大使館の方が、私を迎えに来て下さったんですか?」  と、きいた。 (過去の記憶はなくなっていても、現実は、しっかり把握しているのだな。常識は、失っていないらしい)  と、増田は、ほっとしながら、 「あなたのことを、詳しく調べてから、連れて来るように、指示を受けて来ました」 「私の名前は、十津川省三です。ただ、それ以外のことが、思い出せないのですよ」 「普通は、自分の名前も、忘れてしまうものですが、なぜ、名前は、覚えているんでしょう?」  と、増田は、きいた。  男は、しきりに、両手で、顔を拭くような仕草をしながら、 「わかりません。だが、名前だけは、すぐ、口から出ました」 「日本で、どんな仕事をしていたのか、わかりますか?」 「いや、それも、わかりませんが、何か、大きな仕事の途中だったような気がするのです。一刻も早く、日本に戻って、その仕事をやらなければならない。そう思うと、焦ってしまうのです。何とかして、日本に帰りたいのです。向うへ行けば、思い出せるんじゃないかと、期待しているんですが」 「誰か、友人か、知人、家族の名前を、一人か、二人、思い出せませんか?」 「それは、私が、信用できないということですか?」 「何しろ、一人の人間を出国させ、公費を使って、日本まで送りつけるわけですから、しっかり、日本人の誰と、確認しておきたいのですよ」  と、増田は、いった。  男は、当惑した表情になって、考え込んでしまった。 「何人も、友人がいたし、家族もいる筈なんですが、どうしても思い出せないんです」 「一人の名前もですか?」 「勝手にいっていいのなら、山田とか、加藤とか、並べられますが、顔が、思い浮んで来ないんです」 「弱りましたね」  増田も、溜息《ためいき》をついた。  これでは、大使館に、連れて行くことが出来ない。 「ちょっと待っていて下さい」  と、増田は、いい、院長室の電話を借りて、エンジャメナの大使館に掛けて、指示を仰ぐことにした。  待っていたように、大使が出た。 「すぐ、その男を連れて、こちらに、戻って来て欲しい」  と、大使は、いった。 「しかし、大使。名前以外は、何も覚えていないのです。十津川という名前にしても、本当かどうかわかりません」 「実は、明日、奥さんだという人が、こちらに着くことになった。どうしても、会って、夫かどうか、確認したいと、いってるんだよ。だから、その男を、エンジャメナに、連れて来てくれ」  と、大使は、いった。  増田は、その夜、病院の中で、寝て、翌朝、男を、ジープに乗せて、出発した。 「今は、何月ですか?」  と、車にゆられながら、男が、きく。 「十月ですが」 「何年のですか?」 「一九九一年。平成でいうと、三年です」  増田は、いいながら、ちらりと、男に、眼をやった。時間の観念は、失《な》くなっていないのだろうか?  男は、小さく、頭を振った。 「何か大事なことが、あるんですよ。私に関係したことなんです。それが思い出せないんだ。早く思い出さないと、大変なことになるという気がしてならないのに」 「人が、殺されるようなことですか?」  と、増田は、きいてみた。 「それも、わかりません」 「本当に、日本で、何をしていたか、覚えていないんですか?」 「思い出せません」 「あなたは、日本で、警察にいたかも知れないんですが、思い出せませんか?」  増田は、予断を与えてはいけないと思いながら、つい、口にしてしまった。 「警察ですか?」 「そうです。あなたがいう何か大変なことというのは、警察が関係している事件ではないかと、思いますが」 「警察の事件ですか?」 「殺人とか、強盗とか、誘拐とか、どうですか?」 「───」  男は、じっと、考え込んでいたが、突然、 「畜生!」  と、叫んで、拳で、フロントガラスを、激しく、叩いた。 「大丈夫ですか?」 「思い出せそうで、思い出せないんですよ! それが、情けなくて──」 「日本に帰れば、思い出せるかも知れないといいましたね?」 「ええ」 「多分、日本に、帰れると思いますよ」  と、増田は、いった。  来た時と同じように、ジープから、プロペラ機に乗り継いで、首都、エンジャメナに戻ったのは、また、夜になってだった。  大使館には、すでに、十津川の妻が、着いていた。  彼女は、男を見ると、微笑を、顔一杯に浮べて、 「よかった。もう、安心して。あなたを、日本へ連れて帰るわ」  と、いった。      2  亀井は、チャドで、十津川と名乗る男が見つかったと聞いた時、すぐにでも、行こうと思ったのだが、十津川の妻の直子が、行くと聞いて、委《まか》せることにした。  彼女は、しっかりした女性だから、必ず、日本に、連れて帰ってくれるだろうと、思ったからである。  江崎の周辺では、いぜんとして、不穏な状態が、続いていた。  その後も、毎日、二人、三人と、陽焼けした若者たちが、ブビアから、帰国しているからだった。  新聞も、テレビも、全く取りあげないのだが、亀井には、それが、何か起きる予兆のような気がして仕方がない。 「何か企《たくら》んでいるのは、わかっているんだ」  と、亀井は、西本刑事に、いった。 「しかし、連中は、江崎の別荘に入っただけで、何の動きも見せていません」 「本当に、何の動きもないのか?」 「そうです。別荘の中で、何をしているのかわかりませんが、外から見る限り、何もありません」 「もう、人数は、四十人に近いんだ。その中の一人でも、何か事件を起こしてくれれば、捕えて、連中が、何を企んでいるか、吐かせてやるんだがね」 「それを用心しているのかも知れません」  と、西本は、いった。 「伊原は、どうしている?」  と、亀井は、日下に、きいた。 「相変らず、杉野代議士の秘書をやっていて、時々、新宿のヘルスクラブに、顔を見せていますよ。昨日も、会いました」 「どんな様子だったね?」 「それが、面白いんですが、ひどく、ハイになっていましたね」 「ハイになっている?」 「ええ。精神が、高揚しているみたいで、少しですが、お喋《しやべ》りをしたんです。そうしたら、しきりに、日本の政治について、激しい意見を口にしていましたよ。今の政治では、日本は、駄目になると、いって」 「杉野代議士の秘書だし、若いからね、現状に不満でも、おかしくはないんだが」 「そうなんですが、彼は、保守党の大物政治家の秘書になったわけでしょう。それが、現在の保守党政治を、めちゃくちゃに、批判していましたね。あれが聞こえたら、杉野さんは、気を悪くするんじゃありませんかね」  と、日下は、笑った。 「いや、そうでもありませんよ」  と、いったのは、田中刑事だった。  亀井は、彼に眼を向けた。西本と、日下は、独身だが、三十二歳の田中には、妻子がある。 「それは、どういう意味だ?」  と、亀井が、きくと、田中は、机の引出しから、一冊の週刊誌を取り出した。 「これは、今朝、駅で買った『週刊ムービング』です。杉野代議士が、激してここに書いています」 「見せてくれ」  と、亀井は、いった。  なるほど、杉野代議士が、寄稿している。  例の湾岸戦争に際しての国としての対応の悪さを、批判したあと、次のように、書いていた。 〈──これでは、日本は、国家とはいえないだろう。軍隊を持ちながら、非常時に、それを動かすことが出来ないのでは、独立国家ではない。憲法が邪魔ならば、新しい憲法を作ればいいのだ。野党が、文句をいうのなら、非常事態を宣言し、政党活動を停止させ、その間に、力が正義である新しい憲法を制定するしかない。このままでは、日本は、世界から、侮られ、威信を失い、国家としての存立さえ、危うくなるのだ。今は、議論の時ではない。断行の時である。もし、その勇気のない政治家がいるのなら、直ちに政界を、退くべきである〉 「なかなか、元気がいいね」  亀井は、週刊誌を置いて、苦笑まじりに、いった。 「杉野さんは、昔から、力は正義なりの発想をしています」  と、田中が、いった。 「伊原は、その考えに、感化されたかな?」 「かも知れません」 「伊原と、江崎の連絡係みたいな女は、どうしている? 確か、名前は野崎裕子だったね」  亀井は、また、日下に、眼を向けた。 「これといった動きは、見せていません」  と、日下は、いってから、 「石川ひろみの容態は、どうなんですか? まだ、意識が、戻りませんか?」  と、逆に、亀井に、きいた。 「まだだ。下手をすれば、植物人間になると、医者は、いっている。私は、意識が戻ると、信じているがね」 「韓国で消息を絶った長谷部記者も、そのままでしょう? 十津川警部は、どうなんですか? チャドで見つかったのは、本当に、警部なんですか? 警部なら、すぐ、国際電話で、連絡して来ると思うんですが」  と、西本が、いった。 「警部の奥さんが、迎えに行ってるよ。本物の警部なら、明日にも、帰国する筈だ」 「早く帰って来て欲しいですよ。今、一番、警部にいて貰いたい時ですからね」 「私もだ。今、江崎の別荘には、誰が張り込んでいる?」 「本橋と、尾形です。朝になったら、交代して来ます」  と、田中が、いった。 「どうも、落ち着かないな」  と、亀井が、眉を寄せた時、電話が、鳴った。  亀井が、受話器を取る。 「国際電話です。アフリカのチャドから」  と、交換手が、いい、続いて、 「亀井さん?」  と、十津川の妻の声が、いった。 「そうです。ご主人に会えましたか?」 「ええ。一時間前に」 「それで、ご主人の様子は?」 「元気ですわ。でも、私が、わからないの」 「あなたがわからない? どういうことですか?」 「記憶を失ってるわ。本人は、日本に帰れば、思い出せるかも知れないと、悲しそうに、いっています」 「刑事だということも、今、事件を追いかけていることも、覚えていないんですか?」 「何か、大きな問題が、起きたんだということは、覚えていて、だから、焦っていると、いっていたわ」 「いつ、東京に戻れますか?」 「パリに出て、パリから、成田へ帰ります。大使館の働きと、チャド政府の好意で、パスポートはないけれど、間もなく、ここを出発できるわ」 「今、そちらは、何時ですか?」 「午前五時を回ったところですわ」  と、直子が、いった。      3  若い日下刑事が、捜査本部近くの二十四時間スーパーで、夜食を買い込んで来た。  亀井が、コーヒーをいれた。  彼は、直子が、十津川を連れて戻ることは、全員に話したが、記憶喪失のことは、黙っていた。話して、治るわけでもないし、志気を失わせるだけだと、思ったからである。それに、直子の話だけでは、どの程度のものなのか、断定できなかったからだった。  亀井は、サンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。 「連中は、今頃、何をしているのかな?」  と、亀井は、いった。 「連中って、誰のことですか?」  と、西本が、きく。 「みんなさ。江崎周一郎。彼の別荘に集まってる若者たち。杉野代議士、伊原要一郎、野崎裕子──」 「全員、寝てるんじゃありませんか? もう、午前一時を回っていますから」  日下が、疲れた声で、いった。 「今、踏み込んで、全員を逮捕できたらなあ。清水刑事の仇も討てるのに」  口惜しそうに、西本が、いった。 「いつか、捕まえてやるさ。君と、田中君は、もう寝たまえ。朝になったら、本橋君たちと、交代しなければならないからな」  と、亀井は、いった。  日下と、田中の二人が、奥へ引込んだあと、亀井は、煙草に火をつけた。十津川とも、よく話すのだが、身体に悪いとわかっていても、難しい事件にぶつかると、どうしても、煙草に手が出てしまうのだ。  考えなければならないことが、いくらでもあるのだが、十津川がいないと、うまく、頭が、回転していかない。  いつもは、亀井が質問して、十津川が、その疑問に答えるという形で、推理を進め、事件解決の糸口をつかむのだが、十津川がいないと、亀井は、自問自答しなければならなくなってしまうのだ。  煙草を吸い終ると、亀井も、少し眠ることにした。  並んだ机の上に、毛布を敷いて、亀井は、横になった。眼を閉じて、十津川のことを考えた。記憶を失ってしまったということだが、どんな具合なのだろうか?  考えている中《うち》に、いつの間にか、亀井は、眠ってしまった。  西本の声で、眼を覚ました。  反射的に、腕時計に眼をやると、午前十時を回っている。あわてて、起き上った。 「本多一課長から、電話が入っています」  と、西本が、いった。  亀井は、肯《うなず》いて、受話器を取った。 「十津川君がいないので、君に、見て貰いたいものがある」  と、本多は、いった。  亀井は、水道で顔を洗い、本多捜査一課長に、会いに行った。 「十津川君は、奥さんが連れて、一四時五五分着の日航で、帰って来るそうだ」  と、本多が、いった。 「私にも、奥さんから電話がありました。成田に迎えに行こうと思っているんですが」 「私も、行くつもりだ。どんな具合なのか、知りたいからね」  と、本多は、いってから、 「この手紙が、速達で、届いたんだ。君にも、眼を通しておいて貰いたいと、思ってね」  と、いい、封書を、亀井の前に置いた。  表には、「捜査一課長殿」と、ワープロで打たれているが、差出人の名前はない。 「今度の事件に関係がある手紙ですか?」  と、亀井は、きいた。 「それが、わからないんだ。とにかく、読んでみてくれ」  と、本多は、いう。  亀井は、中の便箋を取り出した。一枚の便箋に、これも、ワープロで、次のように、打たれていた。 〈近く、クーデターの可能性あり。注意して下さい〉 「クーデターというのは、時代離れしていますね」  亀井は、正直な感想を、口にした。 「確かに、その通りなんだがね」 「クーデターというと、普通は、軍隊がやるものでしょう? 日本の自衛隊が、そんなことをやるとは、とても、思えませんが」 「その通りだよ。自衛隊員が、いろいろと、不満を持っているとしても、クーデターを起こすことは、考えられない。国民が、政変を望んでいないからね」  と、本多は、いった。 「とすると、このクーデターというのは、何なんでしょう? 警察をからかう悪ふざけでしょうか?」 「警察を、クーデターという時代がかった方法で、からかったりはしないだろう。もっと、具体的なことで、からかうよ。例えば、次の月曜日に、何々銀行を襲うとか、デパートを爆破するとか、書いてね」 「確かに、そうですね。しかし、クーデターという言葉に、現実味がありませんが」  と、亀井は、いった。 「だがね。どうかな、軍隊のような組織があれば、その組織の人間は、自分たちの力を過信して、クーデターに似た行動を起こしてやろうと、考えるかも知れない」  と、本多が、いった。  亀井は、眼を大きくして、 「あの連中ですか?」 「そうなんだ。あの若者たちの中《うち》、君と、十津川君は、二人を、知っているんだろう?」 「星野と、木原という青年を知っています。二人とも、アフリカで、銃の射撃訓練を受けたとみられていますが、実体はわかりません。暗視装置つきの銃の扱いにも、習熟していると思われるのです」 「そんな若者が、四十人、五十人と集まっていれば、一つの軍隊と見てもいいんじゃないかね。全員が、最新の武器を持てば、政変ぐらい起こせると、思いあがるかも知れないよ」  と、本多は、いった。  亀井の顔が、いくらか、青ざめた。  毎日、彼等が、アフリカから、帰国しているのは、この手紙にあるクーデターのためなのか?  昨日までに、四十二人の若者が、ブビアから帰国している。今日も、何人か、帰国して来るだろう。  数十人の、眼をきらきらさせた若者が、最新式の銃を持って、集合している光景を、亀井は、思い浮べてみた。  確かに、恐しい光景だと思う。  ただ、これが、本当の恐怖にまで高まらないのは、クーデターということが、どうしても、実感とならないからだろう。 「どうだね? カメさんは、可能性があると思うかね?」  と、本多が、きいた。 「連中が、銃を持って、一斉に、立ち上ったら、どうなるかということですか?」 「そうだよ」 「正直にいって、わかりませんが、可能性は、ゼロじゃありません」  と、亀井は、いった。 「武器は、ブビア大使館にあるのかね?」 「それもわかりませんが、星野と、木原が使った狙撃銃は、ブビア大使館にあったと思っています。しかし、数十挺もの銃が隠されているかどうかは、見当がつきません」 「もし、連中が、クーデターみたいなことを考えているとしたら、何とかして、防がなければならないね。立ち上ってしまったら、それを制圧できても、沢山の死傷者を出してしまうだろうからね」  と、厳しい顔で、本多が、いった。      4  だが、今の状況で、江崎の別荘を、強制捜査するわけにはいかなかった。  第一、あの別荘には、武器は、置いてないだろうし、アフリカ帰りの若者が、何十人集まっていようが、それ自体が、犯罪ではないからだ。 (こんな時に、警部がいてくれたら)  と、亀井は、思う。  その十津川を迎えに、亀井は、本多と一緒に、成田に出かけた。  一四時五五分に、パリから着く日本航空の410便に、十津川と、妻の直子が、乗っている筈だ。  亀井も、本多も、十津川が、記憶喪失になっていると聞いているので、重苦しい気持で、到着ロビーに、いた。  その飛行機は、予定より、三十五分遅れて、到着した。  亀井と、本多は、緊張し、不安の中で、十津川と、直子が、出て来るのを待った。  記憶喪失という言葉から、病人然とした姿を想像していたのだが、税関を通って出て来た十津川は、むしろ、顔が陽に焼けて、逞《たくま》しく見えた。 (これなら、大丈夫ではないのか)  と、亀井は、一瞬、楽観したのだが、近づいて来ると、直子が、 「亀井さんですよ」  と、十津川に、紹介して、亀井を、驚かせた。  いや、それ以上に、十津川が、微笑を作って、 「あなたが、亀井さんですか。よろしくお願いします」  と、いったことに、亀井は、ショックを受けてしまった。  本多一課長に対しても、同じだった。  十津川は、亀井の顔も、本多の顔も、覚えていないのだ。  亀井は、奇妙な気分になった。  今、眼の前にいるのは、間違いなく、十津川である。  それに、頭もおかしくなっていない。だが、亀井のことを覚えていないらしい。 「飛行機の中で、彼女から、いろいろと、聞かされました。私は、警視庁捜査一課の警部だということですね」  と、十津川は、亀井と、本多に、いった。 「そうですよ。優秀な警部です」  と、亀井は、強い調子で、いった。 「そして、こちらは、本多さんで、私の上司、あなたは、亀井刑事で、私は、カメさんと、呼んでいたんですね?」 「そうです」 「残念ですが、思い出せない──」  十津川は、唇を噛むような表情になった。 「大丈夫だよ。十津川君。すぐ、記憶なんて、戻って来るさ」  と、本多が、励ますように、いった。 「何か、大きなことをやらなければならないと、思い続けていたんです。それが、何かわからなくて、悩んでいたんですが、どうやら、警察の仕事のようですね」  と、十津川が、いう。 「私が、あとで、説明します」  と、亀井が、いい、本多一課長が、 「そうしてくれ」  と、短く、いった。  だが、亀井は、直子に遠慮して、彼女に、 「今日は、家へ帰られますか?」  と、きいた。 「今、事件の方は、大変なんでしょう?」  直子が、きき返した。 「そうですが──」 「それなら、まっすぐ、捜査本部に、連れて行ってあげて下さい。飛行機の中で、ずっと、主人は、仕事のことを、心配していたんです。どんな仕事をしていたのかって。それを、説明して下さった方が、きっと、安心すると、思いますわ」  と、直子は、いった。 「では、そうさせて下さい」  と、本多が、いった。  亀井と、本多は、十津川を、覆面パトカーで、まっすぐ、捜査本部へ、連れて行くことにした。  その車の中で、亀井は、今度の事件のことを、説明した。  少しは、覚えているのではないかと思ったのだが、十津川は、全く、覚えていないのだ。それで、亀井は、函館の事件から、話さなければならなかった。  ありがたかったのは、十津川が、こちらの話すそばから忘れていくという症状ではないことだった。従って、亀井が話すことは、そのまま、覚えてくれた。  最後に、本多が、例の手紙を、十津川に見せた。 「それで、今話した江崎と、青年たちが、クーデターめいたことを、考えているのではないかと、思っているんだよ」  と、本多は、いった。 「江崎のところにいる青年たちは、アフリカのブビア共和国の砂漠地帯で、射撃訓練をやってきたと、思われるのです。十津川警部は、それを調べに、ブビアの砂漠に行かれたんです」  と、亀井が、続けた。  十津川は、眉を寄せた。 「私は、砂漠に倒れていたということですが、そのためだったんですかね。なぜ、砂漠に倒れていたのか、わからなかったんだが──」 「そうだと、思います。向うで、今いった江崎周一郎や、青年たちに、会われた筈なんです」 「確かに、私は、会ったに違いない──」  十津川は、口の中で呟《つぶや》き、じっと、考え込んでしまった。  だが、なかなか、思い出せないらしく、しきりに、口の中で、何か、ぶつぶつ、呟いている。  亀井は、心配になってきて、 「しばらく、お休みになった方がいいかも知れませんね」 「いや、仕事をした方が、早く、記憶が戻って来ると、思っています。そうさせて下さい」  と、十津川は、亀井に、いった。 (このまま、仕事に入って、大丈夫なのだろうか?)  と、亀井は、悩み、十津川の顔色をうかがった。 [#改ページ]   第二十二章 危険への招待      1  亀井は、記憶の戻らない十津川と、一緒に、果して、戦えるだろうかという不安に、襲われていた。  本来なら、十津川は、専門病院に入れて、リハビリを受けさせるべきなのだろう。だが、十津川抜きで、江崎たちと戦う自信はなかったし、十津川を見ていると、病院に入れるより、事件の渦中に置いた方が、早く、記憶を取り戻してくれるのではないかという気もするのだ。  亀井は、何回も、十津川に、今度の事件を説明した。しまいには、十津川が、苦笑して、 「過去の記憶が消えてしまっても、現実を理解する力はありますよ」 「その丁寧ないい方は、やめてくれませんか」 「いけませんか?」 「警部らしくなくて、こちらが、戸惑ってしまいますよ。どうも、しっくりしません」 「しかしねえ。頭の中では、関係を理解しているんだが、まだ、身についていないんですよ」  と、十津川は、いった。 「私や、西本刑事たちと、警部との関係は、わかっていらっしゃるんでしょう?」 「今、いったように、頭の中では、よくわかっているんですよ」  と、十津川は、相変らず、丁寧な口調で、いう。  亀井は、仕方がないというように、肩をすくめてから、 「射撃訓練に行きませんか?」 「射撃訓練?」 「そうです。さっきも、お話ししましたように、相手は、銃の訓練を受けた若者が、四十人から五十人です。われわれも、当然、銃を使わなければならなくなると、思いますので」  と、亀井は、いった。  亀井は、十津川が、どの程度、前の力を持っているか、知りたかったのだ。記憶というのは、頭の中の構造が、どうかなってしまったのだろうが、身体で覚えたものは、どうなっているのだろうか。亀井は、それが、心配だったのである。  拳銃の扱い方、柔道二段の腕、そうしたものも、忘れてしまうものなのか。もし、全て忘れてしまっているのなら、心情的に、十津川を頼りたくても、無理な願いになってしまうからである。  二人は、警視庁の地下にある試射室に入り、三十八口径リボルバーの試射をすることになった。  亀井は、黙って、拳銃を十津川に渡し、見守ることにした。もし、どうやって射《う》つのかときいて来たら、十津川は、全てを忘れてしまったことになる。 (覚えていてくれ)  と、亀井は、祈りながら、眺めていた。  十津川は、最初、戸惑った表情で、渡された拳銃を眺めていたが、右手に握りしめて、構えたりしている中《うち》に、余裕の表情になり、ゆっくりと、標的に向った。  十五メートル前方にある人型の標的に向って、十津川は、拳銃を構え、まず、一発、射った。  続いて、二発、三発。弾丸は、正確に、前方の標的に命中した。  亀井は、安堵《あんど》した。昔のままの十津川を、そこに、見たからである。  十津川は、射ち終ると、標的を引き寄せて調べ、全ての弾丸が、心臓を中心に集中しているのを確認して、満足の表情を作った。  続いて、弾丸を装填《そうてん》し直し、今度は、スピードをあげて、連射した。  今度も、弾丸は、全て、一ヶ所に集中している。  亀井は、ほっとして、射ち終った十津川に、声をかけた。 「全く、変っていませんよ。ちゃんと、覚えていたじゃありませんか」 「拳銃を手にしていたら、前に射ったことがあったと、思うようになったんですよ。標的に向ったら、自然に射つことが出来ました」 「全弾命中ですよ。弾丸の集中度《グルーミング》なんか、最高です」 「射っている中に、何か、自信が持てて来たんですよ。これは、絶対に、前に射ったことがあるという気になって来ましてね」  と、十津川は、微笑した。 「その調子で、お願いしますよ。とにかく、時間が、ないんです」 「クーデターまでの時間ですね?」 「そうです。警部は、問題の若者二人に会っているんですが、思い出せませんか? 星野という男と、木原という男ですが」  亀井が、きくと、穏やかだった十津川の顔が、急に、曇って、 「それが、思い出せないんですよ──」 「まあ、いいでしょう。その中《うち》に、思い出されると思いますから。それより、連中が、どう出るか、それを、相談したいんですよ」 「五十人前後の若者たちでしたね?」  と、十津川は、考え込んだ。 「そうです。よく訓練された若者たちです」 「武器は、ブビア大使館ですかね?」 「多分、そうなると、思います。大使館は、治外法権ですから、武器を隠しておくには、絶好の場所です。ブビアでは、江崎が渡した莫大な金の中から、武器を買ったと思いますよ。独立国家が、一番簡単に、国家らしく見せる方法は、軍隊を作り、武器を、持つことですから」 「覚醒剤で儲けた金ですね」 「そうです。江崎は、その中から、五十人分の武器を、日本にあるブビア大使館の中に、移しておくように、頼んであるのではないかと、思うのです」 「外交特権を使って、武器を、持ち込んだということですね?」 「そうです。五十人の若者が、その武器を手にして、クーデターをやろうとしています。しかも、彼等は、優秀な狙撃手で、兵士です」 「兵士ですか」 「銃の訓練は、多分、ブビアで、やったと思うのです。警部は、それを調べに、ブビアに行かれたんです」 「私は、アフリカの砂漠に倒れていたと、いわれています。そのことと、何か関係があるんでしょうか?」 「恐らく、訓練は、砂漠で、やられたものと思っています」 「砂漠? だから、私も、砂漠で倒れていたんですかね」 「そう思います」 「もう一度、射って来ます」  急に十津川は、いい、また、S&W拳銃を、射ち始めた。  薬莢《やつきよう》が空になると、すぐ、新しく弾丸を装填して、射つ。執拗に、それを、繰り返している。何か、憑《つ》かれたように射ち続ける十津川を、亀井は、驚いて、見守っていた。  やがて、十津川は、やや疲れた顔で、亀井の傍に戻って来ると、眼だけは、妙に、生き生きとして、 「銃を射っていると、何かを、思い出せそうな気がするんですよ」 「それなら、また、明日、来ましょう」  と、亀井が、いった。 「その余裕があれば、いいんですがね。事態は、切迫しているんでしょう?」 「そう感じています。ただ、いくら、五十人の若者が、集まっていても、何もしない限り、逮捕するわけにはいかんのです」 「誰かを、監視につけているんでしょう?」 「もちろん、交代で、監視させています」 「今のところ、動きがないわけですね?」 「そうです。早く、動き出してくれた方が、ほっとするんですが、こちらから、突つく方法もありません」  と、亀井が、いうと、十津川は、微笑して、 「あるかも知れませんよ」 「ありますか?」 「私は、江崎に会いに、アフリカのブビアに行ったことになっているんでしたね?」 「そうです。江崎も、向うで、警部に会ったといっていますが、そのあと、警部は、ひとりで、砂漠を見物しに行き、行方不明になったことになっています」 「カメさんは、それを、信じましたか?」 「いや、全く、信じませんよ。警部は、江崎の本当の姿を調べに行かれたんです。それなのに、呑気《のんき》に、砂漠を見物していたとは、思えませんから」 「それなら、私は、江崎に会いに行って、そこで、何かあったに違いありません。江崎は、私を煙たく思っていたとすれば、力ずくで、私を、砂漠に放り出したとしても、おかしくはない。それで、私は、砂漠で、遭難してしまったのではないかと思うのですよ」 「ええ。その想像は、当っているんじゃありませんか」  亀井も、大きく肯《うなず》いた。 「もし、そうだとすれば、江崎は、私を殺そうとしたことになります」 「ええ」 「私が、死なずに、帰国したので、江崎は、驚いているだろうし、逮捕されるんじゃないかと、戦々恐々としているかも知れません。江崎が、私の記憶喪失を知らなければです」 「わかりました」  と、亀井は、ニヤッとして、 「江崎に会いに行って、圧力をかけますか」 「私が、何もかも覚えていることにして、会えば、江崎は、あわてるんじゃないかと、思うのですよ」 「その通りです」 「もし、ブビアで、江崎と、彼の下にいる若者たちが、私を殺そうとしたのなら、江崎は、私が、殺人容疑で、逮捕に踏み切るんじゃないかという恐怖にかられると思いますね。となれば、自分が逮捕される前に、事を起こそうとするでしょう」  と、十津川は、いった。 「大いに、あり得ます」 「それなら、さっそく、会いに行こうじゃありませんか」  と、十津川は、微笑した。 「わかりましたが、江崎の前では、私に対して、命令調で話して下さい。そうでないと、怪しまれますから」  と、亀井は、いった。      2  亀井は、十津川と二人で、早朝に、東京を出て、箱根に向った。  江崎の別荘の近くには、西本と日下の二人が、覆面パトカーに乗って、監視に当っていた。  亀井が、二人に、これから、江崎にゆさぶりをかけて来ると話してから、江崎の別荘のインターホンを鳴らした。  陽焼けした青年の一人が、門を開けてくれたが、亀井と一緒にいる十津川を見て、明らかに、狼狽《ろうばい》の色を見せた。 「警部の想像は、当っているようですね」  と、亀井は、十津川の耳元でささやいた。 「そうらしいですね」 「命令調でいうのを、忘れないで下さい」  亀井は、あわてて、注意した。  十津川は、苦笑して、 「わかったよ。カメさん」 「それで、いいんです」  亀井は、ほっとした顔になった。  江崎は、奥の座敷に待っていたが、同じように、十津川を見て、狼狽の表情を、浮べた。  十津川は、向い合って、腰を下すと、 「私が、生きていて、びっくりしたようだね」  と、江崎にいった。  案の定、江崎の顔が、ゆがんだ。 「何のことか、わかりませんが」 「私を、砂漠に放り出して、殺そうとしたことだよ」 「証拠がありますか?」  と、江崎が、開き直った。 「証拠ねえ」 「あなたは、私が、ブビアにいる時、私が、援助して作られた実験農場に見学に来られた。そのあと、砂漠を見に行かれたんですよ。証人は、何人もいますがね」 「君の手足となっている若者たちだろう? そんなのは、証言にならんよ。とにかく、君は、私を、殺そうとしたんだ。その責任は、とって貰うことになるよ」 「何の責任ですか? 農業を、ブビア共和国に教えるのは、いけませんか? 私としては、大いに、国際協力をしているつもりですがね」 「その見返りに、あの国で、自由に銃の射撃訓練をさせて貰っていたんじゃないのかね? 君は、農業指導を名目にして、五十人もの青年を、兵士に育てあげた。いや、兵士なら、規律を守り、法律の制約を受けるから、危険は少い。君の子供たちは、君の命令しか聞かないんだろう。そうだとすれば、危険この上ない存在だよ」  と、十津川は、いった。  江崎は、ゆがんだ笑いを、口元に浮べた。 「そういうのを、理由《いわれ》なき非難というんじゃありませんか。今、この別荘にいる青年たちは、全員、アフリカの人々を助けるために、今まで働いて来たし、これからも、働く筈ですよ。嘘じゃない。ここに、ブビア政府から貰った感謝状があるから、読んでみて下さい。フランス語と、日本語の両方で、書いてあります」  江崎は、額に入れた横書きの感謝状を、二人に見せた。  なるほど、日本語の方には、江崎氏の多大の援助に感謝すると、書かれている。 「ブビアにとっては、大金を渡せば、向うが、感謝状を出すのは、当然でしょう。問題は、その見返りですよ。われわれは、それが、軍事訓練であり、砂漠での実弾射撃だと思っているんですよ」  と、亀井が、いった。 「私は、それを、この眼で見たんだよ。君の若者たちが、砂漠で、実射訓練をしているのをね。だから、君は、私を殺そうと、砂漠に放り出したんだ」  十津川は、江崎の顔を見すえて、いった。記憶が、甦《よみがえ》ったわけではない。推論だった。が、江崎の顔色が変ったところをみれば、当っていたのだ。  十津川は、それに力を得て、嵩《かさ》にかかって、江崎を脅かすことにした。 「従って、君と、君が集めた若者は、さっきもいったように、殺人未遂罪に当るんだ。ブビア政府だって、君たちが、そんな人間たちと知れば、いくら、援助が欲しくても、君たちに対する態度を変えるだろう。農業指導が嘘だということも、証言する筈だ。私は、ブビアの警察に協力して貰って、向うでも、君たちを、殺人集団として、告発してくれるように頼むことにする」 「そんなことが出来ると思うんですか? 私はね、ブビアでは、名誉市民になっているんですよ」 「金で買った名誉市民だろう? その金が、覚醒剤で儲けたものだと知っても、ブビア政府は、君に、名誉市民の称号を贈り続けるかな?」 「覚醒剤って、何のことですか?」 「あなたが、ブビア大使館の人間を、金で買収し、外交特権を利用して、韓国や、台湾から、シャブを密輸入させていることは、わかっているんですよ」  と、亀井が、いった。 「証拠もなしに、人を貶《おとし》めるようなことは、やめてくれませんかね」 「証拠は、すぐ、見つけるよ」  と、十津川が、いった。      3  十津川たちが、東京に戻ると、すぐ、三上刑事部長に呼ばれた。 「十津川君は、もう、記憶が戻ったのかね?」  と、三上が、きく。  十津川は、亀井と眼を合せてから、 「だいぶ、戻って来ました」  と、嘘をついた。 「それで、江崎周一郎を、脅かしたのかね?」 「別に、脅かしたりはしませんが」 「君は、前から、今度の一連の事件の黒幕を、江崎だと、決めつけていた。その記憶が、甦ったのだろうが、彼が、そうだという証拠はないんだよ」 「江崎が、文句をいって来たんですか?」  と、亀井が、きいた。 「いや、直接じゃない。ある大物の政治家が、わざわざ、電話で、抗議をして来たんだよ。江崎周一郎は、今の日本には、必要な人材なのに、警察が、いろいろと、嗅《か》ぎ廻るのは、どういうことだとね」 「杉野代議士ですか?」  と、亀井が、眉をひそめて、きいた。 「それは、どうでもいいだろう。江崎周一郎を追い廻すだけの証拠があるのかね?」 「ブビアで、私を殺そうとしました」  と、十津川が、いった。 「本当かね?」 「本当です」 「証拠は?」 「殺されかけた私が、何よりの証拠です」  と、十津川は、いった。が、三上は、肩をすくめるようにして、 「君の証言は、弁護士にかかれば、一撃で、吹き飛ばされてしまうよ。君は、前々から、江崎周一郎を憎んでいた。部下の清水刑事が殺され、その向うに、江崎がいると、思ってね。そうした先入観のある人間の証言は、信用されないんだよ」 「江崎は、悪人です。それも、容易ならぬことを企《たくら》んでいる悪人です」  と、亀井が、いった。 「クーデターかね?」 「そうです」 「それだって、証拠はないんだろう」 「状況証拠はありますよ」 「そんなことをいえば、江崎周一郎が、立派な人間だという状況証拠だって、沢山集まって来るんじゃないのかね」  と、三上は、いった。  亀井が、黙ってしまうと、三上は、十津川に向って、 「いいかね。江崎周一郎は、政界にも、支持者が多い。亀井君のいった杉野さんも、その一人だよ。アフリカで、忘れられた砂漠の国といわれているブビア共和国に、個人で、経済的な援助をし、農業指導のために、自費で、指導員を送っている。今後、ブビアは、その位置から、重要性を増すだろうといわれている国だ。江崎は、そのブビアの指導者の友人でもある。そういうことを、よく考えて、対応して貰いたいんだよ」  と、三上は、いった。  十津川は、一応、「わかりました」と、いって、部長室を、出た。 「明らかに、杉野代議士の差し金ですよ」  と、廊下で、亀井が、いった。 「私たちが、別荘から帰ったあと、江崎が、すぐ、杉野代議士に、電話したんだろうね」 「そう思います。多分、秘書の伊原を通じてでしょう」 「江崎が、あわてて、抗議したということは、私たちが、会いに行ったことは、効果があったということになるね」 「その調子です」 「何が?」 「言葉遣いが、警部らしくなって来ましたよ」  と、亀井が、微笑した。 「そうかね」 「少しは、安心しました。丁寧にいわれると、しっくり来ないんです。それで、これから、どうしますか?」  と、亀井が、改まった口調で、きいた。  十津川は、すぐには、返事をせず、じっと、考え込んでいたが、 「われわれが、どうするかということより、彼等が、どう動くかということじゃないかな」  と、いった。 「どう動くと、思われますか?」 「それを、ゆっくり考えてみようじゃないか」  と、十津川は、いった。 「こういう時は、コーヒーを飲みながら、話をするんですよ」 「じゃあ、コーヒーを飲もう」  と、すぐ、十津川は、賛成した。  二人は、近くの喫茶店に行き、捜査本部に、連絡しておいてから、コーヒーを注文した。  十津川は、運ばれて来たコーヒーを、前に置いて、 「実は、家内の直子にも、しきりに、コーヒーをすすめられてね。彼女は、私が、コーヒーを飲めば、記憶が戻ると、思ってるんだ」 「じゃあ、飲んで下さい」 「江崎は、私に、殺人容疑で逮捕されるのを心配しているだろうね。折角五十人の青年を、帰国させて、これから、何かを、やろうとしているところだからだ。若者たちが、彼の命令に従う服従心が強ければ強いほど、彼の逮捕は、影響が大きいからね」 「とすると、ここ二、三日の中に、動きますね」  と、亀井が、いう。 「ああ。そうだ」 「しかし、警部。実際問題として、江崎に、何が、出来るでしょうか? 今、彼の別荘には、銃は置いてない筈です。警察の家宅捜索が怖いですからね」 「銃は、ブビア大使館か?」 「大量の銃を隠すとすれば、そこでしょう。警察は、手入れが出来ませんから。ただし、大使館から、江崎邸に運ぶルートは、われわれが、遮断します。大使館の車が、もし、あの別荘に入ろうとすれば、われわれは、その車を阻止します。逆に、江崎と、彼の若者たちが、大使館に入れば、出て来たところを、身体検査しますよ。ブビア大使館から、江崎たちに、銃が渡ることは、絶対に、阻止するつもりです」  亀井は、きっぱりと、いった。 「警察の意志は、連中にも、わかっているんだろう?」 「もちろん、わかっていると思いますね」 「すると、どうやって、銃が、連中の手に渡るかだね?」 「大っぴらには、やらないでしょう。ですから、中間に、他の人間を入れるか、深夜に、大使館から、銃を移すかでしょうね」 「杉野代議士や、秘書の伊原が、仲介役を買って出るかも知れないね」 「そうです。ですから、この二人、それに、例の野崎裕子の動きにも、注意しておく必要があると思います」  と、亀井は、いった。      4  しかし、亀井の予想が外れたことが、わかった。  突然、明日の午後、ブビア大使館で、日本とブビアの親善パーティが行われると、知らされたからである。  新聞にも、そのパーティの予定は、のった。  主な招待者として、外務大臣、杉野代議士、それに、財界人などの名前が、並んでいたが、特別招待者としては、前年、ブビア共和国の農業指導に当った江崎周一郎と、彼の生徒四十九人も、あげられている。 「江崎の生徒ねえ」  と、十津川は、新聞を見ながら、呟《つぶや》いた。 「可愛い生徒でしょうが、恐しい生徒でもあります」  亀井が、眉をひそめて、いった。 「しかし、こんなに公然とやられると、まさか、大使館でのパーティを、やめさせるわけにもいかんだろう?」 「無理です。大使館の中は、治外法権ですから」 「そのパーティに、江崎たちが出席するのも、止《と》められないね」 「その通りです」 「こちらの切札は、いぜんとして、意識不明かね?」 「石川ひろみは、まだ、意識を回復していません。このままでは、完全に、植物人間ですね」 「長谷部記者も、いぜんとして、行方不明なんだろう?」 「韓国の警察が、探してくれているらしいんですが、ソウルのロッテ・ワールドで消えたあとの足取りは、わからないようです」 「参ったね」 「江崎たちは、ブビア大使館の中で、武器とドッキングするつもりですよ」  と、亀井が、いった。 「外務大臣が、出席すると、出ているね」 「なんでも、ブビア大使館では、首相に来て貰いたかったらしいんですが、首相は、外遊中で出席できず、長根外相が、出席することになったそうです」 「明日のパーティの完全な出席者リストが欲しいね」  と、十津川は、いった。 「外務省に問い合せてみましょう」  と、亀井は、いった。  明日のパーティの日本側の出席者は、すぐわかった。  長根外務大臣  藤井外務省アフリカ局長  杉野代議士  伊原秘書  田代M銀行取締役  宇野経団連副会長  粕谷工業会長  江崎周一郎と、ブビア農業指導員  品田アフリカ協会会長  これが、主な来賓の名前だった。 「下手《へた》をすると、この人たちは、江崎と、彼の手下の恰好の人質になる恐れがあるね」  と、十津川は、いった。 「そうです。それも、怖いんです」 「しかし、ブビア大使館に行くなとはいえんだろう?」 「それは、出来ません。儀礼ですから、行かざるを得ないでしょう。大使館で、事件が起きるともいえません。証拠はありませんから」 「われわれが、大使館に入ることも、不可能かね?」  と、十津川が、きいた。 「招待されていませんし、明日、館内で、事件が起きるという証拠もありませんから、われわれが、入ることは、出来ないと、思います」 「われわれが、行っても、江崎が、大使館にいっておいて、われわれを、断わるだろうからね」 「われわれに出来るのは、大使館から出て来る連中を、捕えて、身体検査するぐらいのことです」 「パーティは、明日の午後だったね?」 「午後四時から、式があって、夕方から、パーティだそうです」 「誰か、スパイのような人間を、もぐり込ませることは、不可能かね?」  と、十津川は、きいた。 「招待者の名前は、公表されてしまっていますからね。その中から、スパイをしてくれる人間を見つけ出すのは、大変です。また、頼んでいることがわかれば、連中は慎重になって、ボロを出さないでしょうし、ひょっとすると、過激な行動に出る恐れもあります」 「それに、日本の警察が、ブビア大使館に対して、スパイ行動を考えているという非難が、起きる可能性もあるね」 「それが、一番怖いですよ」  と、亀井は、いった。  今は、国際化の時代で、ちょっとしたことが、国際的な波紋を広げる恐れがある。従って、対ブビアだけで、収まらないのだ。 「クーデターがあるという例の手紙のことだがね」  ふと、十津川が、いった。 「ええ」 「あの手紙の主は、いったい、誰なんだろうね?」 「問題の若者たちの一人だとすると、何か、救いがあるような気がするんですが」  と、亀井は、いった。 「そうだね。江崎は、危険な人物だ。彼のいいなりになる青年ばかりだったら、日本は、怖いことになるからね」  と、十津川は、いった。 「明日に備えて、何かやっておくことがありますか?」 「まず、万一に備えて、機動隊と、打ち合せをしておこう」  と、十津川が、いった。 [#改ページ]   第二十三章 死  線      1  万一に備えて、十津川は、第五機動隊の隊長、白江と、話し合いを、持った。  白江は、十津川の話を聞くと、柔道で鍛えた大きな身体をゆするようにして、 「うちの装甲車を、五、六台、ブビア大使館の周囲に配置しておけば、十分だろう。何かあっても、すぐ、制圧できるからな」  と、いった。  十津川は、小さく、頭を横に振って、 「それは、困ります」 「どうして?」 「装甲車が、ブビア大使館を囲んだりしたら、必ず、抗議を受けますよ。マスコミだって、騒ぐ。下手をすると、外交問題に、発展しかねません」 「じゃあ、どうするんだ?」 「パーティは、午後四時からですから、その時間になったら、いつでも出動できるように、待機していて下さい」 「それだけで、いいのかね?」 「問題は、連中の力です。四十九人のよく訓練された若者と、リーダーの江崎、それに、代議士秘書の男と、連絡係の女、合計五十二名です。若者たちは、外人部隊のような訓練を受けて来ています」 「武器は?」 「正確なことは、わかりません。ブビアは、アメリカとフランスから、武器を買っていますから、この両国の武器が、あると考えられます」 「アメリカの軍用銃というと、まず考えられるのは、ベトナムでも使われたM−16か、その改良型かな。それに、自動拳銃。機関銃は、あるのかね?」 「わかりませんが、一、二挺は、用意されていると、考えておいた方がいいと思います」 「フランス製の銃はよく知らないが、性能は、M−16と、似たり寄ったりだろう。五十二人が、一挺ずつ持っていると、かなりの威力だな」 「銃には、暗視装置がついていると、考えられます」 「暗視装置? 狙撃用のスコープじゃなくてかね?」 「ええ」 「そいつは、面倒だな。うちが持ってるライフルには、暗視装置は、ついていないよ」 「現に、暗視装置つきの銃が、殺人に、使われています」  と、亀井が、いった。 「そうなると、明るい中《うち》か、明るい場所で、連中と、戦いたいね。暗闇では、大人と子供の戦いになってしまう。もちろん、こちらが、子供だがね」 「連中の力を最大限に、見積りましょう。暗視装置つきの銃が五十挺か、五十二挺。拳銃、それに、機関銃が、二、三挺。それに、バズーカも、何門か持つかも知れません」 「それが、ブビア大使館に、立て籠《こも》るのか?」 「それも、可能性ありですが、どんな行動に出て来るか、予測できません」  と、十津川は、いった。  喋《しやべ》っている中に、頭が、少し痛くなって来た。空白の部分の記憶が、戻りかけて、また、消えてしまうからだ。 「連中が、大使館に、立て籠ってくれれば、対応は、比較的楽だと思うね。大使館を、包囲してしまえば、いいんだからね。難しいのは、武器を持った五十人を超す連中が、散らばった時だ。五、六人ずつで、ゲリラ行動を起こされると、東京中が、混乱に陥る」  と、白江は、腕を組んで、いった。 「そこが、難しいところです。今のところ、連中は、全員が、大使館のパーティに出席すると思われますが、彼等の行動は、予測がつきません」  十津川は、正直に、いった。 「彼等の一人一人を、確実に把握しているんじゃないのかね?」  白江が、きく。 「それは、無理ですよ」  と、亀井が、いった。 「今、ブビアから、四十九人の若者が、帰国していますが、それで、全員なのかどうかも、確認しようがないのです。江崎は、全員だといっていますが、あの男の言葉は、信用できません」 「すると、明日、実際に、パーティが始まってみないと、対策の立てようがないということかね?」 「正直にいえば、その通りです」  と、十津川は、いった。 「つまり、われわれに、どんな事態にも即応できる態勢をとっておいてくれというわけだね?」 「お願いします。こちらは、パーティと、江崎たちの動きを、刻々、そちらに連絡します」  と、十津川は、約束した。 「パーティの前に、全員を拘束するわけにはいかんのかね?」  白江が、まだるっこしいという感じで、十津川に、きいた。 「それは、不可能です。連中は、まだ、何もしていませんし、前科もありません。明日のパーティも、ブビアへの貢献へのお礼に招待される形になっていますから、止《と》めるわけにも、いかないのですよ」 「しかし、二人の青年は、殺人を犯しているんだろう? その二人だけでも、逮捕できないのかね?」 「しようと思えば、可能ですが、あと四十七人もいるんですから、殆《ほとん》ど、無意味ではないかと思うのですよ」  と、十津川は、いった。 「江崎は、逮捕できないのか? リーダーを押さえてしまえば、連中も、動きがとれないんじゃないのかね?」 「それは、何回も、考えました。また、何か理由をつけて、一時的に、逮捕し、拘留することも、考えましたよ。しかし、江崎は、表面上は、立派な人物ということになっています。政財界にも、コネはあるし、優秀な弁護士もついています。それに、ブビア大使館は、一応、農業援助に対するお礼で招待すると、いっているんです。そのパーティの直前に、主賓格の一人を逮捕するのは、まずいと思うのです。外務省から、必ずクレームがつくでしょうね」 「すると、予防処置は、とれずか?」 「まず、無理ですね。江崎が、覚醒剤の密売と、殺人に関係している証拠が見つかれば、すぐにでも、逮捕したいのですがね」 「確信は、あるんだろう?」  白江が、きいた。 「もちろん、ありますよ。江崎は、自分のやりたいことのために、覚醒剤の密売で、大金を手に入れました。そのおかげで、何人もの人間が、死んでいます。捜査一課の清水刑事も、そのために、死んでいます。殺されています。いまだに、意識不明のままに、病院に横たわっている女性もいます。全て、江崎の命令したこと、自分の野心のために、やったことだと、確信しています」  と、十津川は、いった。  この言葉は、半分は、本当だが、半分は、嘘だった。  まだ、完全に、記憶の戻っていない十津川は、清水刑事が殺されたことも、函館の事件も、覚えていない。だが、亀井に聞かされ、当時の新聞や、函館署の作った調書などを、何回も、繰り返して読んで、今は、記憶の一部になって来ているのも、事実だった。  結局、白江と、具体的な取り決めは出来なかった。江崎たちが、どう出て来るか、予測がつかなかったからである。即応態勢をとっておき、絶えず、連絡し合うことを、決めたに、とどまった。      2  韓国で、行方不明になった長谷部記者の消息は、いぜんとして、つかめなかった。  十津川は、韓国の警察に、捜索を依頼し、函館の新聞社は、記者を派遣して、探しているのだが、ガセネタと思われる情報しか、伝わって来ないのだ。  長谷部と思われる人間を、どこそこで見たという目撃者は、ソウルでも、釜山でも、見つかっているらしいのだが、本当に、長谷部がいたかとなると、信憑《しんぴよう》性に欠けるものばかりらしい。 「明日のパーティのことがなければ、私が、韓国に行って、探したいんだがね」  と、十津川は、亀井に、いった。 「同感です。私も、韓国へ行って、長谷部記者を探したいと、思います。彼は、覚醒剤の密輸入について、何かつかんだようですからね」  と、亀井も、いった。 「明日のパーティのことだがね」 「はい」 「正直にいって、私は、全く、自信がないんだ。何かあった場合、即応できるかどうか、わからない」 「大丈夫ですよ」 「いや、駄目だよ。私は、長い刑事生活をして来た筈だ。その間に経験したことが、役に立つ筈なんだが、すっかり、忘れてしまっているからね。君にいろいろと教えられて、知識としては、持っているんだが、経験の裏付けとは、違うからね」 「大丈夫ですよ。私が、お助けします」  と、亀井は、いった。  問題の日がきた。  十津川たちは、ブビア大使館前のマンションの一室を借り、大使館を、監視することにした。  双眼鏡を使っても、大使館の中までは、見えない。ただ、さまざまな人間が、出入りしているのは、わかった。  恐らく、パーティの準備をしているのだろう。  まだ、午後四時までには、三時間以上ある。  江崎邸に張り込んでいる日下刑事から、電話連絡が、入って来た。 「妙な具合になりました」  と、日下が、あわてた調子で、いった。 「何があったんだ?」  十津川が、きく。 「連中が、出かけ始めました」 「そろそろ、出発しないと、四時のパーティに間に合わんからだろう」 「それが、一人ずつ、ばらばらに出かけて行くんです。全員は、尾行、出来ません。どうしたらいいですか?」 「どうせ、みんな、ブビア大使館に集まるんだろう? それなら、尾行する必要はないよ」 「それなら、いいんですが」  日下は、心配そうだった。十津川も、何となく、不安になって来たが、 「連中が、他に行く所はないだろう?」  と、自分に、いい聞かせるように、いった。 「今、江崎が、ベンツに乗って、出発しました。尾形と、堀井の二人が、尾行します」  と、日下が、いった。 「君たちも、そろそろ、引き揚げて、こちらに、合流してくれ」  と、十津川は、いった。  その尾形と、堀井の二人から、連絡が、入って来た。  江崎は、どうやら、まっすぐ、東京に向っているようだった。彼が乗り、若者が運転するベンツは、小田原に出て、小田原から、国道1号線を、東京に向って、走っていると、電話して来たからである。 「他の若者たちは、ばらばらに、電車で、来るのかも知れませんね」  と、亀井が、いった。  小田急、東海道本線、それに、新幹線と、利用できる交通機関は、いくらでもある。四十九人が、一緒に行動しては、目立つので、わざと、ばらばらに、出発したのかも知れない。  午後四時が近くなると、ブビア大使館の玄関に、次々に、高級車が、到着するように、なった。  十津川たちは、マンションの窓から、車を降りて来る人たちの写真を撮っていた。車のナンバーもメモし、誰なのか、確認する。  伊原も、杉野代議士と一緒に、やって来た。  江崎のベンツも、三時半には、到着した。  十津川が、重視したのは、アフリカ帰りの若者たちだった。  彼等も、一人、二人と、歩いて、到着した。それを、一人ずつ、写真に撮り、人数を、チェックしていった。  二十四人までは、数えた。が、そこまでで、陽焼けした若者たちの姿は、ぱったりと、途絶えてしまった。  田代M銀行取締役、宇野経団連副会長などが、到着しても、二十五人目の若者は、いっこうに現われない。いや、江崎のベンツを運転して来た若者がいるから、正確には、二十六人目である。  四時半過ぎに、長根外務大臣が、SP二人と一緒に、到着した。  だが、若者二十四人は、姿を見せない。 「まずいな。カメさん」  と、十津川は、眉を寄せて、亀井を見た。 「連中は、何処《どこ》に行ったんでしょうか?」  亀井も、表情が、変っている。  武器は、全て、ブビア大使館に、隠されていると考えていたのだが、そうではなかったのだろうか?  もし、大使館の外に、大量の武器が隠されているとすると、大使館を包囲しただけでは、抑えられないことになる。 (大使館の外と、中で、一斉に、やる気かも知れないな)  と、十津川は、思った。  十津川は、第五機動隊の白江に、電話を掛けた。 「連中の半分、二十四人が、ブビア大使館に、入りません。五時現在、外にいます」  と、十津川は、いった。 「その二十四人が、今、何処にいるかわからないのか?」 「わかりません」 「尾行をつけなかったのかね?」  白江の声が、甲高くなった。 「四十九名が、ばらばらに動き出したので、全員に、尾行はつけられません」 「リーダーの江崎は、今、大使館にいるのか?」 「来ています。二十五人の若者と一緒です」 「外の連中との連絡は、どうするのかな?」 「多分、携帯電話を使うものと思います。トランシーバーでは、通信可能な距離が、限られますから」 「携帯電話か。何とかして、連中の通話を、盗聴したいな」  と、白江は、いってから、 「外にいる二十四人だが、どんな行動に出ると思うね?」  と、きいた。 「それを、白江さんと、相談したいと思っているんですが」 「よし。すぐ、そちらへ行く」  と、白江は、いった。  彼は、十二分後に覆面パトカーを飛ばして、やって来た。  その間に、十津川は、NTTに電話を掛け、江崎の持っている携帯電話のナンバーを調べて貰った。  江崎の他、伊原と、杉野代議士、それに、野崎裕子も、携帯電話を持っていた。そのナンバーも、調べて貰って、番号を、控えた。  白江が着くと、亀井を交えて、三人で、話し合った。 「江崎が、本気で、クーデターを考えているとすると、まず、放送局を、占拠するだろうね。何処の国のクーデターでも、放送局と、国会を占拠するのが、常道だから」  と、白江が、いった。 「国会は、休会中で、首相は、外遊していますから、国会も、首相官邸も、目標には、ならないと思います」 「それなら、やはり、放送局だな。NHKと、各放送局に、警戒するように、電話しておこう。機動隊員も、各放送局に、派遣させる」  と、白江はいい、一緒に来た隊員に、すぐ、連絡するように、指示を与えた。      3  ほとんど、同時刻、渋谷にあるNHK放送センターの玄関に、二十五、六歳の女性と、その弟と見える陽焼けした若者が、訪れていた。  女性は、長身で、美人である。受付の女子職員が、 「どちらにご用ですか?」  と、二人に、きいた。 「会長さんは、いらっしゃるかしら?」  女は、にこやかに、きいた。 「おりますが、アポイントメントのない方とは、お会いできません」 「でも、会いたいの」 「そんなこと、おっしゃっても」  と、女子職員が、困惑した顔になると、二人のガードマンが、近寄って来た。 「一般の人は、ここから先には、通れませんよ」  と、ガードマンの一人が、威厳を見せて、いった。 「でも、用があるんですわ」 「どんな用ですか?」 「ニュースをやっているのは、何処ですか?」  と、若い男の方が、きいた。 「第一スタジオだが、そこへも、許可証のない方は、お通しできませんよ」  もう一人のガードマンが、いう。 「許可証は、持ってるわ」  と、女は、いい、ハンドバッグをあけ、突然、自動拳銃を取り出した。  若者も、内ポケットから、黒光りする拳銃を抜き出した。  ガードマンたちの顔色が、変った。が、まだ、モデルガンではないのかと、疑っている。  それを見抜いたように、若者は、天井に向って、一発、射《う》った。  鋭い発射音と共に、天井のコンクリートが、砕けて、落ちて来た。 「壁際に行って、うしろを向け!」  と、若者は、落ち着いた声で命令し、ガードマンたちを、並べておいて、無造作に、後頭部を、殴りつけていった。  相手は、まるで、人形のように、ばたばた、倒れていく。  その間に、女は、外に待機していた男たちを招き入れた。  二十四人の若者たちは、五、六個のトランクを運び入れると、中から、自動小銃を取り出した。  受付に倒れているガードマンたちと女子職員を、傍のトイレに運び込み、代りに、二人の若者が、ガードマンの服に着がえ、女は、受付に、座った。  残りの二十二人が、銃を手に、奥へ突き進んだ。  彼等は、三人から四人の小隊に分れ、各スタジオを占拠すると同時に、会長室に向って、エレベーターであがって行った。  会長秘書室では、その時、警察からの電話を受けていた。  秘書室長の森は、受話器を置くと、会長室に入り、深田会長に、 「今、警察から、電話がありました。クーデターを計画している連中がいるので、都内の放送局は、警戒するようにということです」  と、いった。  深田は、眉をひそめて、 「クーデター? いやに、大時代な話じゃないか。今の日本で、そんなことを考えるバカな人間がいるとは、思えないがね」 「なんでも、五十人の若者たちで、武装しているそうです」 「五十人で、何が出来るんだ?」  と、深田が、いった時、会長室のドアが蹴破られて、銃を持った三人の若い男が、飛び込んで来た。三人とも、眼を、きらきら光らせている。 「動くな!」  と、一人が、大声で、いった。  それでも、森秘書室長が、逃げようとすると、若者の一人が、容赦なく、射った。  森は、胸を射たれて、床に転倒した。血が、噴き出す。 「動くなといった筈だ」  と、一人が、深田会長に向って、いった。 「何が望みかね?」  深田が、声をふるわせた。 「ただ、われわれの指示通りに動けばいい」  と、若者の一人が、冷静な口調で、いった。  彼は、深田を、押しのけて、会長の椅子に腰を下すと、机の上に置かれたインターホンのボタンを、一つ一つ押して、第一スタジオ、調整室、第二スタジオと、状況を、問い合せていった。  そのあと、携帯電話を取り出して、リーダーの江崎を、呼んだ。 「茨木です。NHK放送センターを、占拠しました」 「何時間、持ちこたえられるね?」  と、江崎が、きいた。 「自家発電設備がありますから、送電を停止されても、放送は可能です。また、建物は堅固で、入口は狭く、シャッターを閉めれば、十二時間は、維持できます。相手が、戦車を持って来ない限りですが」 「わかった。こちらが、指示次第、放送を開始してくれ」  と、江崎が、いった。      4  NHK放送センターが、おかしいという連絡は、ブビア大使館前のマンションに陣取っている十津川たちのところにも、入って来た。  都内の各放送局に、銃を持った機動隊員を三人ずつ、白江は、行かせたのだが、その中のNHK放送センターに出かけた三人の隊員から、連絡が入らないというのである。  白江は、部屋にあるテレビのスイッチを入れ、NHKの番組にしてみた。五時四十分だから、ホームドラマの再放送をやっている。  五時五十分になると、NHKの今週の番組予告になった。別に、これといって、不自然なところはない。  だが、各放送局に派遣した隊員には、必ず、報告するように、命じてあった。それがないというのは、おかしいのだ。  白江は、本部に電話を入れ、別の隊員を、もう一度、NHK放送センターに行かせるように、命令した。 「ひょっとすると、NHK放送センターが、やられたかも知れん」  と、白江が、十津川に、いった。 「大使館の方は、平穏ですね。中庭で、パーティが、始まったようです」  と、十津川は、いった。 「最初から、大使館に、注意を集めておいて、別動隊が、放送局を占拠する計画だったのかも知れませんよ」  亀井が、かたい表情で、いった。 「いや、大使館でも、何かやると思うよ。もし、こちらが、単なる陽動作戦なら、二十五人もの若者を、出席させないだろう」  と、十津川は、いった。  中庭でのパーティが終ると、集まった人々は、建物の中に入った。こうなると、今、十津川たちのいる場所から、何も見えなくなってしまった。  不安と、いらだちが、十津川たちに襲いかかってくる。  新たに、NHK放送センターに向った三人の機動隊員も、報告して来なかった。もはや、何かあったと、考えざるを得なくなった。  そんな時、夕方六時のニュースが始まった。  NHKニュースが、突然、「革命への誘い」という文字を、画面に、映し出したのである。  いつもの中年のニュース・キャスターの代りに、陽焼けした若者の顔が、画面を占領した。  彼が、画面から、呼びかける。 「今、日本に必要なのは、強固な団結と、強い国家意志です。それがなければ、日本は、国家としての誇りを失い、民族として死滅してしまうでしょう。すでに、日本は、国として亡《ほろ》びたと言明する識者もいるのです。私は、世界を廻って来ましたが、わが祖国日本は、多額の援助金を出しながら、世界中から軽蔑されているのです。なぜか? 理由は、簡単です。日本が、強くないからです。国際社会では、強者が尊敬され、弱者は、軽蔑されるのです。アメリカをごらんなさい。ベトナム戦争で敗北した時、アメリカは、軽蔑されました。正義の戦いではなかったからか? 違います。敗けたからです。今回の湾岸戦争では、アメリカは、世界中から、賞讃を受けました。正義の戦いだったからか? ノーです。アメリカが勝ったからです。これが、冷厳な世界の常識なのです。日本も、尊敬されたければ、強い国家にならなければなりません。経済にふさわしい軍事力を持ち、アメリカに次ぐ強国となった時、いやでも、われわれは、世界の尊敬を集められるのです。平和国家など、この国際社会では、何の尊敬も得られません。今の弱腰の内閣を改造し、強い政府を作りましょう。世界第二の経済と、世界二位の軍事力を備えるのです。それが、日本の進むべき道です。その方向へ、全力を尽くせる政府を作らなければならないのです」  改めて、十津川は、その若者の眼が、輝いているのを感じた。他の若者たちも、同じようにきらきらと光る眼をしている。  その中に、野崎裕子の姿もあった。  彼女は、リーダー格らしく、携帯電話を、手にして、どこかと連絡を取り合っていた。  若者は、次々に、画面に、登場して、はっきりした調子で、喋った。われわれが求めているのは、強い日本である。弱い日本には、何の魅力もないと。  一人の若者は、用意して来た、強力内閣の名簿を発表した。  首相をはじめとして、どの大臣も、日頃、憲法を改正し、自衛隊を軍隊にし、海外派兵を認める発言をしている人間たちだった。  杉野代議士の名前も、その中にあった。 「われわれが、この顔ぶれの内閣を推薦するのは、われわれの理想に、少しでも近づくような日本に出来ると、考えるからです。特に、われわれが首相に推す平出昌一郎氏は、日本も、核を持つべきだと主張しておられます。今の世界で、核を持つことが、強国の一つの条件である以上、わが日本も、核を持つべきなのです。日本より、はるかに経済力で劣る国も、核を持っています。その国と、衝突した時、当然、相手は、核で脅してくるのです。そうなった時、どうなるか考えて下さい。相手の何倍、何十倍の国力を持っていたとしても、数発の核爆弾に怯《おび》えて、白旗をあげざるを得ないのです。この不安は、現実のことなのです。核時代を生き抜くためには、わが日本も、核を持たなければ、ならないのです」  若者たちは、用意して来たビデオテープをかける。  第二次大戦のフィルムを、編集したものだった。  おなじみのヒトラーの演説があり、広島の原爆があるフィルムである。  新しい若者が、そのビデオのあとで、熱っぽく、話しかけて来た。 「今、わが国が、何かにつけて、アメリカに頭が上らないのは、なぜでしょうか? それは、第二次大戦でアメリカに負けたからです。その後遺症です。なぜ、負けたか? 向うが、二発の原爆を持っていたからです。日本が、逆に、原爆を持っていたら、日本は、戦争に勝ち、日本の正義が、今の世界を支配していたでしょう。だから、われわれは、核を持つべきなのです。ドイツの鉄鋼王は、かつて、鉄は国家なりといいました。今、核は力なり、国家なりです。この時代に、核を怖がり、核武装なしでは、いつまでも、小国に甘んじていなければならなくなります──」 「くそ!」  と、白江は、舌打ちすると、十津川に向って、 「うちの隊で、これから、NHK放送センターを、解放しに行く。こんなチンピラ連中に、勝手なことをいわせておきたくないからね」  と、いった。 「隊員の半分は、残しておいて下さい。ブビア大使館で、何か起きた時に、助けて貰いたいですから」  と、十津川は、応じた。  白江が、飛び出して行ったあと、一時間ほどして、十津川の恐れていたことが起きた。  江崎と、二十五人の若者たちが、今日のパーティの参列者と、ブビア駐日大使を人質にして、大使館に、立て籠ったのだ。  彼等は、大量の武器で、武装していた。  若者たちの一人で、江崎の秘書でもある星野が、声明を発表した。 「われわれは、M−16Aカービン、M−60機関銃、バズーカなどを持っている。他に、プラスチック爆弾もある。そして、長根外務大臣や、ブビア駐日大使などを人質にしている。われわれの要求は、この日本のためを思うものである。現在のだらしのない内閣は、総辞職し、われわれの要求する内閣を、作って貰うことである」  その閣僚名簿として、星野が発表したのは、NHK放送センターを占領した若者たちが発表したのと、同じ名簿だった。  機動隊が、大使館を包囲した。が、うかつには、突入できない。そんなことをすれば、大きな被害の出ることが予想されたからである。 「わかりませんね」  と、亀井が、首をかしげて、十津川を見た。 「連中の要求がか?」 「ええ。あんな奇妙な要求が通ると、思っているんですかね? 今の政府が、呑む筈がありませんよ」 「私も、同感だが、連中は、もっと怖いことを考えているのかも知れないな」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]   第二十四章 逃  亡      1  NHK放送センターを占拠した若者たちと、ブビア大使館を占拠した星野たちが、同時刻に、また、一つの声明を、発表した。  現在の首相をはじめ、閣僚の名前をあげ、一時間以内に、辞職すること、辞職しなければ、断罪するというのである。  連中は、首相たちが、辞めなければならない理由を、いくつもあげた。  私利私欲に走り、日本を平和漬けにし、国民を無気力にした。その他と、いうわけである。 「一時間と、限定したのは、どういう意味でしょうか?」  と、亀井が、心配そうに、十津川に、きいた。 「一時間しても、首相たちが、辞職の意志を表明しなければ、何かするというんだろうね」 「しかし、連中は、NHK放送センターと、ブビア大使館に、立て籠《こも》っているんです。何も出来ませんよ」  と、亀井は、いった。 「しかし、何かやる気なんだ」  と、十津川は、いった。  記憶の一部は、いぜんとして、欠けたままだが、思考能力までは、衰えてはいなかった。  十津川は、じっと、考え込んだ。  連中に、何が出来るだろうか? NHKの電波を使って、次々に、声明を出すことしか、出来ないのではないのか?  それとも、江崎と、四十九人の若者たちが、武器を手に、一斉に、ブビア大使館と、NHK放送センターから、飛び出して来て、閣僚暗殺に向う気でいるのだろうか?  NHK放送センターも、ブビア大使館も、今、機動隊が、包囲している。その数は、どんどん、増やされている。  江崎たちが、いかに、最新式の武器を手に持っていても、包囲を突破するのは、簡単ではあるまい。  睨《にら》み合いのまま、一時間が、過ぎた。  NHK放送センターも、ブビア大使館も、包囲したまま、動きがとれない。  機動隊も、まだ、突入しないし、江崎たちも、突出して来ないのだ。  現在、国会は休会で、首相や、閣僚は、自宅や、別荘にいるか、或いは、外遊していた。  田代副総理の自宅は、世田谷区太子堂にあった。  敷地二百坪、建坪百坪の、東京では、豪邸である。  そこには、江崎たちの声明に対する回答を求めて、新聞記者たちが、押しかけていた。  田代が、集まった記者たちに向って、笑顔を浮べ、 「こうした、詰らない声明には、回答する必要はない。それが、私の態度です」  と、いった瞬間だった。  凄まじい爆発音と共に、百坪の豪邸に、火柱が立ち、二階建の建物は、たちまち、炎に包まれた。  集まっていた記者たちは、悲鳴をあげて、逃げまどい、SPと、秘書が、必死になって、田代の身体を、炎の外に、連れ出そうとした。  同じ時刻。  広田法相は、箱根の別荘から、都内へ向おうとしていた。実際に、法相として、警察の指揮をとろうと考えたのだ。  車では、間に合わないので、ヘリコプターが、来ることになっていた。  ヘリは、近くのN高原に着く。そこまで、車で行くことにして、SPと、秘書を連れて、別荘を出た瞬間だった。  背後で、地ひびきが起き、閃光が走った。次の瞬間、熱風が、背後から襲い、広田たちを、なぎ倒した。  秘書は、とっさに、法相をかばうように、覆いかぶさった。その背中に、建物の破片が、ばらばらと、落下して来た。  振り向くと、和風の建物は、砕け散り、炎に包まれていた。 「大丈夫ですか?」  と、秘書の水野は、法相に、声をかけた。  法相は、よろよろと、立ち上ると、 「何が、どうしたんだ?」  と、水野に、きいた。 「とにかく、ここにいては、危険です。離れましょう」  と、SPの一人が、彼の腕をつかんで、車の方へ引っ張っていった。  また、背後で、激しい爆音が起きた。炎が噴出する。  SPと、水野は、小柄な法相の身体を、車に押し込み、スタートさせた。  動き出した車の屋根にも、建物の破片が、次々に、落下して来た。 「テロか?」  法相は、リア・シートの窓から、振り返って、呟《つぶや》いた。 「多分、C4と呼ばれる軍用のプラスチック爆薬が使われたものと思います」  と、SPの一人が、いった。 「けしからん。この法治国家で、こんなことをするとは──」  法相は、声をふるわせた。      2  十津川たちのところには、副総理の自宅や、法相の別荘が、爆破されたことが、無線電話で、知らされた。  副総理と、法相だけではなかった。  建設大臣、厚生大臣と、次々に、自宅が、爆破されたという知らせが飛び込んで来た。  その中《うち》、建設大臣の三好は、重傷を負って、病院に、運ばれたと、いう。 「連中ですよ」  と、亀井が、舌打ちした。  江崎の別荘を出て、一人ずつに分れた彼等は、NHK放送センターに集まるまでの間に、副総理と、各大臣の自宅や、別荘に、時限爆弾を、仕掛けたのだ。  そう考えるより仕方がない。 「だから、声明で、一時間と、時間を切ったのか」  と、十津川は、いった。 「そうですよ。ひどい連中です」  と、亀井が、いう。  白江が、顔を、真っ赤にして、飛び込んで来た。 「連中は、副総理や、各大臣の自宅や、別荘を、次々に、爆破しているぞ」  と、白江は、怒鳴るように、いった。 「私たちも、聞きました」  十津川が、いうと、白江は、 「これ以上、連中の勝手には、させん。突入命令を出すぞ」 「被害が出ますよ。連中は、武器を持ってるんです」  と、亀井が、いった。  白江は、大声で、 「いつまで待ったって、事態は、よくならんよ。被害は出るだろうが、突入する」  と、いった。 「ちょっと、待って下さい」  と、十津川が、進み出た。白江は、じろりと睨んで、 「君に、何か名案でもあるのかね?」 「名案とはいえませんが、連中を、攪乱《かくらん》してから、突入したらどうかと、思いますが」 「かくらん? マイクで呼びかけることは、もうやっているよ」 「そうじゃありません。連中は、ブビア大使館組と、NHK放送センター組の間で、携帯電話を、使っています」 「それを、盗聴しようとでもいうのかね?」 「さっき、NTTに、彼等の持っている携帯電話のナンバーを、聞いておきました」 「そうか。それを使って、攪乱するのか?」 「そうです。うまくやれば、連中は、混乱すると、思います。今まで、番号がわかったのは江崎、伊原、杉野代議士、野崎裕子のものです。彼等に似た声で、やれば、十分に、成功すると思います。それに、こちらから掛けていれば、話し中になって、その携帯電話は、使えなくなります」  と、十津川は、いった。 「やってみよう」  と、白江も、肯《うなず》いた。  各プロダクションの声優に集まって貰い、江崎たちに似た声を、出して貰った。  そのあと、簡単なシナリオを作り、練習をすませてから、一斉に、連中の持っている携帯電話に、掛けた。  その一方で、十津川は、NTTに、NHK放送センターと、ブビア大使館のどちらかの電話を、封鎖してくれるように、依頼した。  携帯電話が、混乱すれば、連中は、一般の電話を使って、連絡しようとするに違いなかったからである。  NHK放送センターの方は、難しいが、ブビア大使館の方は、回線が少いので、封鎖できるという返事だった。  作戦が、始まった。  ──こちら、放送センターですが、うまくいきません。全員、打ちのめされてしまっています。  これは、野崎裕子の声で、江崎に掛ける。  ──もう目的は、達した。若者たちに、降伏しろと、伝えてくれ。  これは、江崎の声で、野崎裕子に、電話する。  十津川の期待した混乱が始まった。  NHK放送センターを包囲した機動隊の隊長は、内部で、動揺が起きている模様を、報告して来た。  ブビア大使館に立て籠った江崎たちは、それに、いら立ってか、しきりと、一般の電話を掛けようとし始めた。  だが、NTTが、大使館の電話を、封鎖してしまっている。  彼等は、今度は、携帯電話を使って、NTTに掛けて、大使館の電話を、使用できるようにしろと、怒鳴った。 「十分以内に、通話できるようにしなければ、人質を殺すぞ」  と、若い男の声が、脅した。  その様子は、すぐ、十津川たちに、知らされた。 「そろそろ、突入のチャンスだな」  と、白江が、呟いた。  ブビア大使館と、NHK放送センターの二ヶ所で、同時に、機動隊が、攻撃を開始した。  まず、催涙弾が射《う》ち込まれ、防毒マスクをつけ、ライフルを持った機動隊員が、突入した。  とたんに、ブビア大使館でも、NHK放送センターでも、一斉に、明りが消えてしまった。  犯人たちが、電源を切ったのである。暗闇の中から、犯人たちは、暗視装置つきの銃で、射って来る。  突入した機動隊員は、暗闇の中で、ばたばた倒れていった。  彼等も、暗視装置つきのライフルを持っていたが、その数は少かったし、銃も旧式で、扱いにも慣れていなかった。  機動隊員は、じわじわと、押し戻された。  白江は、急遽《きゆうきよ》、投光器を運ばせ、それで突破口を照らし出すと共に、マイクを使って、 「NHK放送センターでは、全員が、降伏したぞ!」  と、ブビア大使館では、叫ばせ、逆に、NHK放送センターでは、 「ブビア大使館では、すでに、全員が降伏した。君たちも、早く降伏したまえ!」  と、繰り返し、叫ばせた。  投光器や、催涙ガスよりも、この放送の方が、犯人たちの志気を阻喪させたようだった。  その前から、携帯電話によって、攪乱されていたし、マイクによる放送に対して、それを、確認する方法を、失ってしまっていたからである。  犯人たちは、若いだけに、いったん、自信を失うと、崩壊も早かった。  機動隊は、じりじりと、押して行き、まず、NHK放送センターの方が、解放された。  続いて、ブビア大使館が、解放されると、十津川と、亀井の二人は、催涙ガスと、硝煙と、血の匂いのする館内に、飛び込んで行った。  自分の手で、江崎を捕えたかったからである。  降伏した若者たちが、次々に、連行されて行き、一方、射殺された機動隊員と、犯人の若者の死体が、運び出されて行く。  館内には、再び、明りがついていた。  しかし、江崎の姿は、何処《どこ》にも、なかった。 「逃げましたね」  と、亀井が、いまいましげに、いった。 「明りが消えた瞬間、暗闇に乗じて、逃げたかな」  と、十津川も、いった。 「偉そうなことをいう奴でしたが、いざとなると、ひとりだけ、逃げ出したんですよ」 「捕まれば、死刑は間違いないからだろう」  と、十津川が、いった時、突然、近くにいた機動隊員が、犯人から押収した暗視装置つきの小銃を、空に向って、射った。  乾いた射撃音が、ひびきわたった。もう一人の機動隊員も、同じように、夜空に向って、引金をひいた。仲間の隊員が射殺された口惜しさを、そんな行為で、発散しているのかも知れなかった。  亀井は、眉をひそめていたが、呆然と、突っ立っている十津川を見て、 「どうされたんですか? 警部」  と、きいた。  十津川は、その声で、夢からさめたみたいに、亀井を見た。 「君は、カメさんだ」 「そうです」 「そうだ。君は、カメさんなんだよ」  十津川は、ニッコリ笑った。 「どうされたんですか?」 「思い出したんだよ。今の銃声を、聞いている中にね。私は、砂漠で、若者たちが、射撃訓練をしているのを見たんだ。そこで、江崎に会ったんだ!」  十津川は、嬉しそうに、同じ言葉を繰り返した。  亀井も、嬉しそうに、笑って、 「記憶が、戻ったんですね?」 「ああ。全部、思い出したよ。砂漠へ連れ出され、ジープから、放り出されたこともね」 「それで、安心しましたよ。正直にいうと、心配だったんです。警部が、指揮されていても、どこまで、わかって、指揮しているのかなと、思いましてね」 「そうだろうね」  と、十津川は、肯いて、 「私も、理屈でわかるだけだったからね。実感がないというのは、不安なものだよ。家内と会っていても、みんなが、奥さんだというから、奥さんだと思うだけで、実感が、伴わなかったからね」 「奥さんが喜びますよ」 「ああ。それにしても、江崎を、捕えたいね。清水刑事の仇を討ちたいんだ」  と、十津川は、いった。 「今、午後十一時五十分です」  と、亀井が、腕時計を見て、いった。 「機動隊が突入した時は、何時頃だったかね?」 「午後十時頃の筈です」 「それなら、もう、飛行機は、飛んでないね」 「はい。従って、江崎が、飛行機で、高飛びする恐れは、ありません」 「とにかく、外へ出て、考えよう」  と、十津川は、いった。  二人は、まだ、催涙ガスと、硝煙の漂っている館内から、外へ出た。  それと、入れかわるように、報道陣が、館内に踏み込んで行った。      3  二人は、捜査本部のある調布署には戻らず、桜田門の警視庁に、廻った。その方が、指揮をとるのに、便利と考えたからである。  四十九人の若者たちの中、九人が、射殺され、十五人が負傷し、残りも、逮捕された。  その中には、星野と木原も、混じっていた。また死亡した若者の中に、函館で、清水刑事が、泊っていた旅館を訪れた、ニセ刑事の、モンタージュ写真そっくりの男もいた。  しかし、その男からは、もう供述を、取ることはできない。  NHK放送センターでは、野崎裕子も、逮捕されたと、報告されて来た。  だが、肝心の江崎が、消えた。  十津川は、神奈川県警に頼んで、江崎の箱根の別荘を、捜索して貰うことにした。江崎が、逃げ戻ったら、逮捕して貰うためと、今度のテロについての証拠を集めて貰うためだった。  警視庁では、三上刑事部長の下で、深夜にもかかわらず、捜査会議が、開かれた。議題は、ただ一点、江崎をいかにして、逮捕するかということだった。  逮捕した若者たちや、野崎裕子を訊問しても、誰も、逃亡先は、知らないということだった。嘘をついている気配はないから、江崎は、彼等に、何も教えなかったのだろう。 「アフリカに逃亡するケースは、ないと思います。ブビア大使館を占拠するという事件を起こした、その首謀者に、ブビアが、入国を許可するとは、思えません」  と、十津川が、いった。 「すると、国内に、潜伏するということかね?」  三上部長が、きいた。 「一つ考えられるのは、江崎は、覚醒剤の密売に関係していましたから、その時に親しくなった暴力団に、かくまわれるということです」  と、十津川が、いった。 「どうかね? その線は」  三上が、本多一課長を見た。 「私は、あまり可能性はないと思います。理由は、江崎が、クーデターという大事件を引き起こしたからです。暴力団も、彼をかくまえば、警察が、徹底的に、追及しますから、大変なマイナスになります。計算高い暴力団が、そんな損なことを、するとは、思えないからです」  と、本多は、いった。 「十津川君は、何か反論があるかね?」  と、三上が、きく。 「いえ、ありません。確かに、暴力団が、かくまうという線は、ないかも知れません」 「すると、やはり、海外逃亡かね?」 「東南アジアがありそうです」  と、本多が、いった。 「その中には、韓国も、当然、含まれますね。江崎は、覚醒剤の線で、韓国にも、一つの足場を作っていると、思います」  と、十津川が、いった。 「韓国といえば、日本の新聞記者が、行方不明になっていたね?」  三上が、思い出して、いった。 「函館の長谷部記者です」 「よし。全ての海外への出口を、押さえよう」  と、三上は、いった。  各国際空港、港湾の両方だった。  関釜連絡船の出る下関港も、もちろん、その中に含まれていた。  深夜だったが、国際空港を持つ県警などに、連絡が取られた。  江崎の顔写真は、コピーされ、それは、ファックスで、各県警に送られた。  時刻は、次第に、夜明けに、近づいて来る。  捜査会議が終って、十津川と亀井は、捜査一課の部屋で、休みをとった。  亀井が、コーヒーをいれてくれた。 「このコーヒーのことも、思い出されましたか?」  と、亀井が、きいた。 「ああ。思い出したよ。捜査が、徹夜になると、いつも、カメさんが、コーヒーをいれてくれていたんだ」 「そうですよ」  と、亀井が、笑った。 「それから、煙草を吸いすぎると、時々、カメさんに、注意されていた」 「本当に、記憶が戻ったんですね」 「ああ。その通りだ。もう大丈夫だ」  と、十津川は、いった。  記憶が、戻ると同時に、十津川の胸中に、部下の清水刑事が、殺されたことへの、怒りがよみがえった。  十津川はあらためて、野崎裕子を、尋問した。  十津川は、函館の病院に、忍びこんで、清水刑事に接触し、北斗星4号の切符を渡して、おびきだしたのは、野崎裕子ではないのか、という推理を、彼女にぶつけてみた。  ロビー・カーで、清水刑事と、話し込んでいたのは、彼女ではないかと、十津川は、にらんでいたのだ。  十津川は、清水刑事の、背広のポケットから、出てきた切符に、ついていた指紋が、彼女のものと、一致したという事実を、突きつけた。  しかしそれでも、彼女は黙秘を続けた。  逮捕したほかの若者たちも、すべて黙秘をしている。  やはり江崎を、捕まえなければだめだ、と十津川は思った。  亀井は、自分のいれたコーヒーを手に持って、窓際まで歩いて行き、話しかけた。 「間もなく、夜が明けますよ」 「江崎も、何処かで、夜明けを、待っているんだろうね」  十津川は、椅子に腰を下したまま、いった。  この日一日、十津川は、じっと、各県警からの報告を、見ていた。  どの国際空港にも、江崎は、現われなかった。海外に、定期航路のある港にもである。  再び、夜になったが、江崎は、消えてしまったように見えた。  十津川は、日本全体の地図を、壁に貼り、それを、睨むように見た。  地図には、空路や、航路が、青と、赤の線で、描かれている。  江崎は、今日、どちらの線も利用しなかった。 「おかしいな」  と、十津川は、声に出していった。 「しばらく、国内に隠れていて、われわれの追及がゆるんだところで、海外に逃げ出す気でいるんじゃありませんか」  と、亀井が、いった。 「いや、そんなことは、考えられない。江崎は、一日も早く、国外へ逃げ出したい筈なんだ。クーデターみたいな事件を起こして失敗したら、一刻も早く、少しでも遠くに、逃げたいと思うに違いないからね」  十津川は、確信を持って、いった。 「しかし、現実に、江崎は、外へ出ていませんよ」  と、亀井は、いった。 「それは、出入国管理局を、通っていないということだろう?」 「それは、そうですが──」 「カメさん。覚醒剤は、きちんと、税関を通って、輸入されて来るわけじゃないよ」 「ええ」 「それと同じことを、江崎がしたんじゃないかな?」 「と、いいますと?」 「密航だよ。下関から釜山までは、すぐだ。別に、連絡船に乗らなくても、漁船でも行ける」 「ええ。しかし、海岸で、捕まりますよ」 「そうかな? 広く、長い海岸線全部をガードすることは、韓国にも出来ないんじゃないかね。殊に、韓国の漁船を使えば、より安全に、韓国に渡れる筈だ」  と、十津川は、いった。 「なぜ、韓国だと、思うんですか?」 「第一に、日本から一番近い。第二に、江崎が、覚醒剤の密輸入で、ルートを作ってあるだろうということだよ」 「では、警部は、もう、すでに、江崎が、韓国に、逃げてしまったと、思われるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「その恐れがあると、思っている」 「しかし、それを、どうやって、調べたら、いいんですか?」  と、亀井が、きいた。 「密航したとすれば、出発地は、恐らく、北九州から、山陰にかけての海岸だろう。二人で、それを調べてみようじゃないか」  と、十津川は、いった。 「行きましょう」 「私はね、江崎を、絶対、逃がしたくないんだ」  と、十津川は、いった。  翌日、早く、二人は、飛行機で、福岡に飛んだ。  まず、福岡県警に行き、協力を求め、佐賀と、長崎の県警にも、電話で、頼んだ。更に、山口県警にも、電話をして、下関周辺を、当って貰うことにした。  実際に、来てみると、韓国に向い合う海岸線の長さに驚かされる。日本側も、韓国側も、長い海岸線を当るのは、至難の業だろう。  この日の夕方になって、昨日の午後十一時頃、福岡県の北部、筑前深江近くの漁港から出発した漁船が、男を一人乗せて、韓国へ向ったらしいという情報を得た。  十津川と、亀井は、福岡県警の刑事に案内されて、問題の漁港に向った。  小さな漁港だった。  そこの駐在の巡査が、十津川たちを迎えた。 「例の漁船が、戻って来ています」  と、巡査は、興奮した口調で、いった。  その巡査に案内されて、問題の漁船を、見に行った。「第三栄光丸」と書かれた、二十トンくらいの船だった。  甲板にいた漁師に、県警の刑事が、 「おい。人間を一人、韓国に密航させたのと違うのか?」  と、大声で、きいた。  陽焼けした四十歳ぐらいの漁師は、 「おれは、何も知らねえよ」  と、そっぽを向いた。  十津川たちは、漁船に、強引に、乗り込んだ。 「話を聞いてくれないかね」  と、十津川は、話しかけた。が、漁師は、相変らず、そっぽを向いたままである。  十津川は、構わずに、話していった。 「あんたが、運んだ男は、何人もの人間を殺しているんだ。それだけじゃない。覚醒剤を密売していた男だよ。そのせいで、北海道では、高校野球のヒーローが、覚醒剤中毒の男に、殺されてしまった」 「───」 「あんたは多分、脅かされて、運んだんだろうから、逮捕しようとは思わない。だから、協力してくれないかね?」 「───」  返事はなかったが、漁師の表情が、少し動いたのを、十津川は、見逃さなかった。 「私が、逮捕したいのは、あんたじゃなくて、あらゆる悪事を重ねて逃亡した男なんだよ。韓国の何処で、降ろしたか、それだけ教えてくれればいいんだ」  と、十津川は、続けた。 「黙ってると、逮捕しなきゃならんぞ」  と、県警の刑事が、傍から、いった。  漁師は、ちらりと、十津川を見て、 「本当に、おれは、逮捕されないのかね?」 「ああ。正直に話してくれればね」  と、十津川は、いった。  漁師は、また、黙ってしまったが、十津川は、辛抱強く待った。  漁師は、その沈黙に耐えかねたように、 「その男の写真があったら、見せてくれ」  と、十津川に、いった。  十津川は、持って来た江崎の顔写真を、漁師に見せた。  漁師は、ひと眼見て、 「ああ、この男だ」 「間違いないね?」 「ないよ」 「昨夜、乗せたんだね?」  と、十津川が、きく。 「ああ、突然、やって来て、韓国まで、連れて行けといったんだ。嫌だといったら、ピストルを突きつけられた」 「ピストルをね」 「あいつの眼は、普通じゃなかったよ。本当に、殺されると思った。だから、怖かったが、あいつを、韓国まで、運んだんだ」 「韓国のどの辺に、降ろしたんだね?」  と、亀井が、きいた。 「釜山の西十二、三キロの海岸だよ。正確な地名は、知らないよ」 「彼は、韓国に、知り合いがいるようだったかね?」 「向うへ行けば、何とかなると、いってたよ。だから、知り合いがいるんじゃないかね」  と、漁師は、いった。  十津川は、礼をいって、船から、岸にあがった。 「あの漁師は、江崎から金を貰っていますよ」  と、亀井が、小声で、いった。 「わかってる」  十津川も、小声で、いった。とにかく、協力してくれたのだ。そのくらいのことは、許してやろうという気に、十津川は、なっていた。  江崎を逮捕できれば、それでいいのだ。 「これから、どうされますか?」  と、福岡県警の刑事が、十津川に、きいた。 「もちろん、韓国へ、江崎を追って行きますよ」  と、十津川は、きっぱりと、いった。  十津川は、県警の刑事に、そこから、空港まで、送って貰った。  福岡空港から、韓国へは、ソウルと、釜山に、便がある。  十津川は、ソウルへ行くことにした。  午後の便は、まだ、アキがあるというので、それに乗ることにした。  大韓航空の便である。  十津川と、亀井は、乗り込んだ。五分遅れて、大韓航空735便のA300は、飛びあがった。 [#改ページ]   第二十五章 ソウル─釜山      1 「警部は、韓国語が、話せるんですか?」  亀井は、機上で、十津川に、きいた。 「ぜんぜん、駄目だよ」 「それじゃあ、向うで、どうします? 通訳を見つけますか?」 「一人、私たちを助けてくれそうな韓国人がいる。李という人だ。彼に、頼もうと、思っている」 「どんな人ですか?」 「私は、警察大学で、一ヶ月間、毎日一時間ずつだが、捜査の実際について、講義したことがある。学生の中に、ソウル市警から、留学していた韓国の警察官がいた。それが、李さんだ。彼は、二年間、日本の警察大学に留学していたから、日本語が、喋《しやべ》れる」 「今、何処《どこ》にいるか、わかっていますか?」 「この間、手紙がきた。最近、ソウル市警の中に設けられた強力課で、働いていると書いてあった。ソウルに来られることがあったら、寄ってくれともね」 「強力課ですか?」 「凶悪事件専門の課で、暴力団が関係した事件も捜査するらしい。よくわからないが、捜査一課と、捜査四課が、合わさったような部署かも知れないね」  と、十津川は、いった。  ソウル空港に着くと、十津川たちは、タクシー乗り場に急ぎ、南大門のソウル市警へ、行くことにした。  市警察署の前庭には、白と青のツートンカラーのパトカーや、ジープが、ずらりと並んでいる。建物には、何か、スローガンらしきものが書かれているのだが、十津川や、亀井には、意味がわからなかった。  二人は、受付に行き、パスポートを見せてから、手帳に、李刑事の名前を書いて示した。  これだけで、こちらの意志は通じたらしく、受付の制服警官が、庁内電話を掛けてくれた。  五、六分して、背の高い男が、ブルゾン姿で、降りて来た。  彼は、十津川の傍に駈け寄ると、 「十津川先生」  と、日本語でいった。  十津川は、照れた顔になり、 「先生は、やめて下さい。今は、同じ刑事ですから」 「しかし、先生のあの講義は、忘れませんよ。大いに、得るところがありました」  と、李刑事は、いう。  十津川は、彼に、亀井を紹介してから、江崎の顔写真を見せた。 「この男は、覚醒剤で、金を儲け、その金で若者に銃を習わせ、クーデターを起こした男です」  十津川が、説明すると、李は、大きく肯《うなず》いて、 「NHK放送センターと、ブビア大使館を占拠した事件のことは、今、韓国でも、盛んに、テレビで、放送していますよ」 「そのリーダーの江崎が、漁船で、釜山に逃げたことがわかったんです。ぜひ、逮捕したい。それで、李さんに、協力を、お願いに、来たんですよ」  と、十津川は、いった。 「とにかく、私の部屋に来て下さい」  と、李はいい、十津川と亀井を、エレベーターで、三階に案内してくれた。  市内で起きた強盗殺人事件を捜査中ということで、部屋の入口に、日本と同じように、捜査本部の看板が、かかっていた。この看板は、ハングルではなく、漢字で書かれているので、十津川にも、よくわかった。  李は、強力課の中で、一つの班のリーダーということで、部屋が与えられていた。  十津川と、亀井は、その部屋で、お茶のご馳走になった。 「韓国で、覚醒剤というと、釜山ということになっていますから、その江崎も、多分、釜山に、潜伏すると思います」  と、李は、壁にかかった韓国の地図に眼をやりながら、話した。  韓国で製造された覚醒剤は、飛行機で、日本に運ばれることもあるが、大部分は、釜山から、日本に、船で、密輸されるからだと、李は、いった。 「船で、下関、長崎、或いは、横浜に運ばれ、日本の暴力団に、売られています。日本からも、暴力団員が、釜山に入って来ていますよ」  と、李は、説明した。 「すると、釜山へ行った方が、江崎を逮捕できそうですか?」  と、十津川が、きいた。 「その前に、面白い人物を、紹介しますよ。いや、紹介というより、お見せします」  と、李は、いった。  彼は、自分で、車を運転し、十津川と、亀井を、案内してくれた。  漢江にかかる橋を渡り、有名なロッテ・ワールド近くにある豪邸だった。  李は、その邸の傍で、車を停め、車の中から、 「あの家の持主は、木崎実こと、金華淳《キムフアスン》といいます。日本の暴力団K組の幹部で、日本と韓国を結ぶ覚醒剤ルートを、動かしている一人です」 「逮捕しないんですか?」  と、亀井が、きいた。  李は、苦笑して、 「逮捕したいと思いますが、証拠がありません。それは、彼が、実行犯ではなくて、資金を出して、組織を運用している人間ということもあります。韓国も、日本と同じで、製造や、密輸の実行犯は、捕まりますが、金を出している人間、いわゆる大物は、なかなか、捕まらないんですよ」 「それで、私たちを、ここへ案内して下さった理由は、何なんですか?」  と、十津川が、きいた。      2 「日本から、覚醒剤関係の大物が、韓国にやって来ると、彼が、迎えに行くことがあるんですよ。つまり、彼が、その人間のために、あれこれ、便宜を図るんだと思っています。一ヶ月前に、日本の暴力団幹部が数人やって来た時も、彼が、歓迎のパーティを、ソウル市内で開いています」  と、李が、いった。 「すると、江崎を、迎えに、釜山に行くことも、あり得るわけですね?」 「江崎という男は、大物ですか?」 「そうですね。大物でしょう。K組とも、覚醒剤を通じて、関係があったと、思います」  と、十津川は、いった。 「それなら、きっと、釜山へ迎えに行きますよ。そして、彼のために、偽造のパスポートを、用意したりする筈です」  と、李は、いった。  ただ、木崎こと、金が、いつ動くかは、わからないと、李は、いった。 「釜山へ行くとしても、列車を使うか、飛行機を使うか、わかりません。常に、見張っている必要があります」 「それは、私たちで、やりますよ」  と、十津川は、いった。  李は、他の事件の捜査に当っているので、申しわけないが、一緒に、張り込みは出来ないといい、その代りに、日本語の出来る若い刑事と、車を一台、提供することを、約束してくれた。  その車が来る間に、十津川は、近くの公衆電話から、日本の捜査本部に、国際電話を掛けた。 「K組幹部の木崎実という男のことを、調べておいてくれ」  と、十津川は、西本刑事にいってから、 「長谷部記者の消息は、何か入っているかね?」 「彼が勤めている函館の新聞社に、韓国から国際電話が入って、彼は、無事だから、騒ぎ立てるなと、男の声で、いったそうです」 「日本語でかね?」 「そうです。それだけいって、電話は切れてしまったと、いっています」 「韓国の何処から掛けて来たかは、わからないのか?」 「釜山です」  と、西本は、いった。  嬉しいニュースは、石川ひろみが、やっと、意識を取り戻したということだった。しかし、何も、喋らないという。  李刑事が、頼んでくれた若い崔刑事が、車を運転して、到着した。崔は、高校卒業まで、日本で育ったのだと、いった。  崔刑事が、牛乳や、パンを買って来てくれたので、車内で、それを食べながらの張り込みということになった。  夜になっても、邸から、人の出て来る気配はなかった。十津川たちも、車の中で、夜を明かすことになった。  夜明け。寒さで、十津川は、眼をさました。  交代で、監視していたのだが、窓ガラスが、曇るので、亀井と、崔刑事が、窓を少し開けていたのだ。 「門が、開きましたよ」  と、崔が、日本語で、いった。  邸の門が開き、ベンツが、出て来るところだった。  韓国では、めったに、外国車を見かけない。多分、輸入を制限しているのだろう。従って、ベンツは、目立つ。 「金が、乗っていますよ」  と、崔刑事がいい、こちらの車も、スタートさせた。  白いベンツは、若い男が運転し、リア・シートに、中年の男が、乗っている。  十津川は、李刑事が渡してくれた木崎こと、金華淳の写真と、その中年男を、比べてみた。確かに、同一人物である。 「どうやら、ソウル駅に行くようですね」  と、崔が、いった。  彼のいう通り、ベンツは、ソウル駅に着いた。  日本の植民地時代に造られた赤レンガ造りの巨大な建物である。周囲には、ビルが林立し、高速道路が、頭上を、走っていた。 「列車で、釜山に行くのかも知れません」  と、崔刑事が、いった。  Seoul Station と、英語で書かれた入口を入って行く。  木崎こと、金は、若い男に見送られて、改札口を抜けて行った。  崔刑事は、特急・セマウル号の切符を、二枚、買って来てくれた。 「彼は、釜山までの切符を、買いました。同じ車両の切符です」  と、崔は、いった。  十津川は、礼をいって、その料金を払った。 「私は、ここでお別れしますが、釜山の警察には、連絡しておきます。日本語の出来る刑事が、迎えに来ているように、します」  と、崔刑事は、いった。  十津川と、亀井は、ホームに入って行った。  ホームには、釜山行の特急・セマウル号が、入線していた。  将来は、ソウル─釜山間を、新幹線が走るのだが、今、一番速い列車は、ディーゼル特急のセマウル号である。  時刻表を見ると、一時間おきぐらいに、列車は、走っている。  巨大なディーゼル機関車に牽引される五両編成の列車である。白と青のツートンカラーで、パーラー・カーが連結されていた。 「韓国の人は、青が好きなんですかね。パトカーも、白と青のツートンでしたよ」  と、亀井が、列車を見ながら、いった。  ホームにも、列車の表示板にも、ハングルと、英語が、書かれている。  ホームには、売店があり、同じような顔つきの人たちが、歩いているから、ハングル文字を除けば、日本の駅と同じだった。  日本人らしいグループの一団も、ホームにいる。彼等も、釜山か、途中の大田、或いは、古都慶州に行くのだろう。  二人は、売店で、英語と、日本語を使って、缶ジュースと、缶コーヒー、それに、新聞を買ってから、列車に、乗り込んだ。  日本のグリーン車に当るのだろう。リクライニングのゆったりした座席が、通路をへだてて、二列ずつ、並んでいる。  木崎は、三列先の窓側の座席に、腰を下していた。  列車は、ディーゼル特有の低いエンジン音をひびかせて、出発した。  八十パーセントほどの混み方である。背広を着たサラリーマン風というか、エリート風の男の乗客が多かった。新聞を広げて読んでいる乗客もいる。  十津川には、どういう客筋なのか、判断がつかなかった。  売店で買った新聞を広げてみた。もちろん、ハングルは、チンプンカンプンだが、東京で起きたクーデター事件が、写真入りで、大きくのっている。それが、韓国と日本の近さを感じさせた。  雨が、降り出した。  ソウルの街並みが消え、田園風景に、変った。  水田が、広がる。畦《あぜ》道に、柳が植えられているのが、日本とは、違っている。  遠くの道路を、バスが走っているのが見えた。  木崎も、窓の外を見つめている。 「釜山で、彼は、江崎と会うんでしょうか?」  亀井が、小声で、きく。 「会って貰いたいよ」  と、十津川は、いった。  駅を通過する。駅名の表示板は、ハングルが、大きく、英語は小さいので、何という駅か読み取れなかった。  突然、反対車線に、軍用列車が、現われた。戦車を積んだ無蓋貨車が、延々と続く。  亀井も、それを、じっと、見つめていた。まだ、南と北との間に、平和が訪れていないことの象徴のように思えたからだろう。休戦にはなっていても、平和とはいえないということなのだろうと、十津川も、思った。  軍用列車が、消えてしまうと、また、窓の外は、のどかな田園風景に変り、十津川は、ほっとした。  ふと、木崎が、座席から、立ち上った。十津川と、亀井も、つられて、通路を、歩いて行った。  木崎が、足を運んだのは、パーラー・カーだった。  食堂車というより、ビュッフェに近い車両である。  乗客の姿は、まばらだった。隅のテーブルでは、若い韓国人が二人、ビールを飲みながら、声高に、話をしている。世間話をしているというより、大声なので、議論をしているように思えた。  木崎は、空《あ》いているテーブルに腰を下した。  ビールを飲みながら、雨に煙る窓の外を、眺めている。  十津川と、亀井は、離れた席につき、オレンジジュースを注文した。 「長谷部記者は、どうやら、生きているらしいよ」  と、十津川は、声をひそめて、いった。木崎が、日本語がわかるので、聞かれたら、困るからだ。  十津川は、函館の新聞社に、韓国から、電話があったことを、いった。 「生きていてくれると、いいですね」  と、亀井も、いった。  李刑事の話では、日本に入って来る覚醒剤の八十パーセントは、韓国産だということだった。それだけに、韓国の犯罪組織だけでなく、このルートに関係している日本の組織も、必死になって、守ろうとするのだろう。  水原を過ぎるあたりから、雨は、本降りになってきた。  昼間なのに、車窓は、うす暗くなり、叩きつけてくる雨音が、やかましくなった。  木崎が、パーラー・カーを引き揚げても、十津川と、亀井は、尾行に気付かれるのを恐れて、しばらく席を立たなかった。  一時間もすると、急に、雨がやみ、窓の外に、虹が見え、やがて、かっと、明るい太陽が、照りつけてきた。気候も、大陸的なのだろうか。  十津川と、亀井は、自分の車両に戻った。  木崎は、アイマスクをつけて、眠っていた。      3  釜山駅は、喧噪《けんそう》に包まれていた。  ソウルとは、肌合いの違いを感じさせる雰囲気だった。東京と、大阪の違いのようなものだろうか。それに、コンコースには、日本人の団体客も多く、その話し声のせいもありそうだ。彼等は、お互いに日本人同士だと、自然と、声が、大きくなってしまう。  十津川も、外国へ出ると、そうなってしまうことが多い。  木崎は、大股に、駅の出口に向って、歩いて行く。  十津川と、亀井は、混雑するコンコースの中を、彼を追って、歩いて行った。が、突然、 「十津川さんでは、ありませんか?」  と、日本語で、声をかけられた。  十津川が、振り向くと、若い男が、こちらを見ている。  十津川が、肯くと、男は、ほっとした表情になって、 「釜山市警の朴刑事です。ソウルから、連絡があったので、お迎えにあがりました」  と、日本語で、いった。 「ありがたいのですが、ある男を尾行中でして」  十津川が、当惑した顔でいうと、朴刑事は、笑顔になって、 「あの男が、今夜泊るホテルはわかっていますから、大丈夫ですよ」  と、いった。  その言葉で、十津川と、亀井は、安心した。  駅を出ると、パトカーがとめてあり、朴刑事は、十津川と亀井を、その車に乗せて、市警察に、案内した。  十津川は、署長にあいさつし、協力を感謝した。  署長は、朴刑事の通訳で、 「覚醒剤の撲滅は、わが韓国にとっても、急務ですので、協力するのは、当然です」  と、いった。  そのあと、朴刑事は、電話で、問い合せていたが、 「やはり、木崎こと、金華淳は、釜山ニューグランドホテルに、チェック・インしたそうです」  と、十津川に、いった。 「それでは、私たちも、そのホテルに案内してくれませんか。あの男を、見張りたいんです」  十津川が、いうと、朴は、 「少し、ゆっくりして下さい。私の仲間の刑事二人が、すでに、このホテルに行って、彼の監視に当っています」  と、微笑した。 「しかし、これは、私の仕事だから」  と、十津川が、いうと、朴は、頭を横に振って、 「いや、韓国の警察の仕事でもあります。ソウル市警からも、いわれていますが、木崎こと、金《キム》は、われわれ韓国の警察が、マークしてきた男です。そちらの捜査に関係して、逮捕できれば、われわれも、助かります。あなた方が探している男は、密入国です。とすれば、密入国を助けた罪で、逮捕できるんです。それを、突破口に出来ます」 「木崎こと、金華淳ですが、この釜山にも、仲間がいるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「もちろん、いますよ。釜山の覚醒剤製造グループと、つながりのある男ですからね」 「暴力団員ですか?」 「それに、弁護士や、政財界の有名人もですよ。だから、うかつに、彼に、手を出せないんです。ソウル市警もですよ」  と、朴刑事は、肩をすくめた。 「江崎に、似ていますね」  と、十津川は、いった。 「どこがですか?」 「覚醒剤の密売をやって金を儲けているくせに、その金で、政財界に、友人を作り、その上、社会を変えようとまでした人間です」 「金華淳は、そこまでは、考えていないようで、安心ですが」  と、朴刑事は、笑った。  木崎こと、金華淳は、ホテルに入ったまま、動こうとしなかった。 「今日は、何もしないかも知れませんね」  と、朴は、いった。  十津川と、亀井は、取りあえず、同じホテルに、泊ることにした。  市内の高台、外人墓地近くのホテルである。  部屋に落ち着いて、窓のカーテンを開けると、釜山の市街が、一望できた。  木崎の泊っている部屋は、最上階のスイートルームである。  十津川は、国際電話で、西本刑事に、連絡を取った。 「捜査四課に、K組のことを、調べて貰いました。木崎こと、金華淳ですが、確かに、K組の幹部の一人で、韓国へ帰ってしまったあとも、幹部として、名を連ねているそうです」  と、西本が、いった。 「つまり、K組の扱っている覚醒剤は、韓国から来ているということだね」 「そう思いますね。K組の幹部である木崎が、帰国して、金華淳になり、覚醒剤を、日本のK組に流しているのだと思います」 「捜査の時、木崎の名前があがったことがあるのかな?」 「まだ、一度もないそうです。いつも、逮捕されるのは、K組の下っ端か、船で、クスリを運んで来る韓国の船員だけで、K組の幹部も、韓国の製造元も、捕まっていません」  と、西本は、いう。 「それなら、江崎に絡《から》んで、木崎も、逮捕できれば、韓国の警察にとっても、万々歳なわけだ」 「そう思います」 「逮捕した連中は、江崎の逃亡先について、自供していないかね? 韓国の何処に逃げる気なのか」 「連中も、知らないようですね。江崎が、さっさと、逃げ出してしまったことに、腹を立てている若者もいるくらいですから、本当に、知らないんだと思います」  と、西本は、いった。 「長谷部記者の消息は、いぜんとして、つかめずかね?」 「例の電話以外は、何もありません。函館の新聞社では、長谷部記者が、韓国で誘拐されたのなら、身代金は払うと、いって、犯人からの連絡を待っているそうです」 「誘拐か」 「いえ。まだ、何も起きていないんですが」  と、西本は、いった。  十津川は、こちらのホテルの電話番号を教えてから、電話を切った。      4  翌朝早く、朴刑事から、電話が入った。 「昨夜、金華淳に、電話が二本、入っています。一人は女、もう一人は男の声だったと、ホテルの交換手は、いっています。話の内容は、残念ながら、わかりません」  と、朴は、教えてくれた。 「日本から掛った電話だったかどうかは、わかりませんか?」 「二本とも、釜山市内から、掛けています。女性の通話時間は、二十五分。長いですよ。男の方は、五分間でした」 「二人とも、韓国語ですか?」 「そうです。江崎という男は、韓国語が出来ましたか?」  と、朴刑事が、逆に、きいた。 「多少は、出来ると思いますが、聞いたことは、ないんです」  と、十津川は、いった。  電話のあと、十津川と、亀井は、一階ロビーにあるレストランで、朝食をとった。  別に、フランス料理が食べたかったからではなく、その店から、ホテルの入口が、よく見えたからである。  朝食が、終りかけた時、木崎の姿が見えた。  若い女と一緒だった。二十四、五歳で、足のきれいな女である。  二人は、何か談笑しながら、ロビーをよぎって、ホテルを出て行く。  十津川と、亀井は、あわてて、精算し、木崎と女を追って、ホテルを、飛び出した。  木崎たちは、すぐ、ホテルの玄関にとまっているタクシーに、乗り込んだ。  他に、タクシーは、とまっていない。  二人が、あわてているところへ、一般の車が、滑るように走り込んで来て、とまった。  運転席から、顔を突き出して、朴刑事が、 「早く、乗って下さい!」  と、大声で、いった。  十津川と、亀井が、リア・シートに、滑り込むと同時に、車は、走り出した。  向うのタクシーは、釜山の街に向って、坂を降りて行く。  市内に入ると、今度は、港に向う。  木崎たちのタクシーが、とまったのは、市場の入口だった。  タクシーから降りた木崎と、女は、さまざまな店が並ぶ市場の中に入って行った。  十津川たちも、二人を尾行して、市場に入った。  漁船が並ぶ港の岸壁に沿って、魚、日用品、野菜など、いろいろなものを売る露店が並んでいた。  大きな店もあれば、ビーチパラソルの下で、野菜を売っているおばさんもいる。  魚は、恐らく、漁船から水揚げしたものを、ここで、売っているのだろう。  木崎は、女と、露店のおかみさんと話をしたり、果物を、手にとってみたりしている。 「われわれの尾行に、気付いて、わざと、露店をひやかしたりしているんじゃありませんか?」  と、亀井が、小声で、きいた。 「そんなことはないと思います。ソウル市警からの連絡では、金華淳は、若い時から、市場を歩くのが、好きだったようです。日本にいる時も、大阪や、京都の市場を、よく歩いていたみたいです」  朴刑事が、いった。  確かに、木崎は、楽しげに、店を一つ一つ見ていく。  木崎たちが、とまれば、十津川たちも、とまる。向うが歩き出せば、こちらも、歩く。  豚の頭を並べて、売っている店もあるし、ニンニクや、とうがらしを、ざるに山盛りにして、売っている店もあった。  観光に来ているのなら楽しいのだろうが、尾行では、そうした景色は、ただ、眼に映るだけである。  市場の横に、きちんとした建物の商店街があった。食べ物の店があったり、パチンコ屋があったり、有名ブランドの革製品と、そっくりに、安く作りますと書かれた店も並んでいる。  木崎と女は、その中の小さな食堂に入って行った。  店は、他に客はいないし、七、八人の客で一杯になってしまいそうな狭さだから、中に入って行けば、必ず、注目され、警戒されてしまうだろう。  仕方なく、十津川たちは、外で、見張ることにした。裏口から消える可能性もあると思い、亀井が、裏へ廻った。  店のドアが閉まってしまうと、中で、何が行われているのか、わからなかった。  三十分、一時間とたったが、木崎も、女も出て来ない。 「おかしいな」  と、十津川が、呟《つぶや》くと、朴刑事も、表情が変って、突然、ドアを蹴破るようにして、店に、飛び込んで行った。  十津川も、その後に続いた。  店内では、女が、ひとりで、退屈そうに、煙草を吸っているが、木崎の姿はない。  朴刑事は、女に向って、激しい口調で、何かいったが、十津川には、韓国語なので、何をいったか、わからない。恐らく、連れの男は、何処だと、きいたのだろう。  朴刑事は、店の者も、どやしつけた。青い顔の小柄なママは、黙って、二階を、指さした。  朴刑事と、十津川は、狭い階段を、二階に駈けあがった。  子供が遊んでいたが、木崎の姿はない。  隣りの店との間の窓が開いている。ほとんど、くっついて建てられているので、ここから、隣りの店に、逃げたのか。 「私は、下の女を、押さえてくる」  と、十津川は、朴刑事に、いった。 「お願いします。私は、隣りに行ってみます」  朴は、窓から、隣りの店へ、移って行った。  十津川は、また、階下へ、駈けおりた。  女は、まだ、煙草をもてあそんでいた。 [#改ページ]   第二十六章 千年の都・慶州      1  木崎には、まんまと逃げられてしまった。  取り押さえた女は、すぐ、釜山市警察へ、連行された。  朴刑事は、女に、口を割らせ、木崎実こと、金華淳の行方を喋《しやべ》らせてやると、息まいていたのだが、一時間後に、釈放されてしまった。  弁護士がやって来て、釈放手続をとったのである。 「彼女は、政府高官の知り合いでしてね。木崎には、町で突然、声をかけられて、食事を一緒にしただけだというのですよ。そんな話は、もちろん信じられませんが、圧力には、かないません」  と、朴刑事は、口惜しそうに、十津川たちに、いった。 「日本でも、時々、圧力が、かかってきますよ」  と、十津川は、なぐさめるように、いった。 「あの女が、覚醒剤に関係があるという証拠が、少しでもあれば、どんな圧力があろうが、放したりはしないんですが」 「木崎の行方は、もうつかめませんか?」  と、十津川が、きくと、朴刑事は、ニヤッと、笑った。 「あの男のことは、調べつくしてあります。釜山のどこに知り合いがいるか、どんな性癖があるかまで、わかっているんです。釜山市警の全力をあげても、捕えてみせますよ」  と、いった。  十津川と、亀井は、その言葉を信じて、待つことにした。  市警察にいて、新しい展開を待っていると、突然、朴刑事がやって来た。 「すぐ一緒に、外人墓地へ行って下さい」  と、声をかけた。 「そこに、木崎がいるんですか?」 「いや、木崎は、引き続いて、探しています。共同墓地に、日本人が、倒れているという知らせが入ったので、十津川さんたちに、確認して貰いたいのです」 「江崎ですか?」 「わかりませんが、とにかく、行きましょう」  朴は、有無をいわせぬ感じで、十津川と、亀井を、パトカーに乗せた。  朴は、外人墓地といったが、正確には、朝鮮戦争での外人戦没者の墓地である。あの戦争では、国連軍として、さまざまな国の兵士が、やって来て戦い、戦死した。  その兵士たちを埋葬した墓地である。  釜山市を見下す高台にある。朴の運転するパトカーは、サイレンを鳴らして、高台に向って、走った。 「ただの日本人観光客なら、日本領事館に知らせた方がいいんじゃないですか?」  と、亀井が、いうと、朴刑事は、 「それが、問題の日本人は、どうやら、覚醒剤中毒のようでしてね」  と、いった。  墓地に着いた。  入口のところに、救急車が、とまっていた。  朴刑事が、先に立って、入口を入って行った。  広大な墓地である。手入れの行き届いた芝生に、各国別に、墓石が、並び、各国の旗が、ひるがえっていた。  歩きながら、墓石の一つに眼をやると、トルコ軍兵士の区画で、名前と、年齢が、刻み込まれていた。  釜山の観光名所の一つなのだが、四、五人の人影しかなかった。  通路を、朴が走り、十津川と亀井も、走った。  前方の芝生に、七、八人の人垣が出来ている。  そこに駈け寄って、人垣の中を、のぞき込んだ。  救急隊員二人と、医者が、一人の男を、押さえつけていた。  その男が、何か、わめき、暴れている。  医者が、その男の腕に、注射をした。鎮静剤の注射らしい。  わめき声は、日本語だった。  十津川は、その男の顔をのぞき込んで、愕然とした。行方不明になっていた長谷部記者だったからである。  眼が合っても、長谷部は、十津川や、亀井が、わからないようだった。  眼を血走らせて、怒鳴るかと思うと、次の瞬間には、怯《おび》えた眼になって、悲鳴を洩らす。 「シャブ漬けにされていたらしい」  と、朴刑事が、低い声で、いった。  注射がきいてきたのか、長谷部は、大人しくなり、救急隊員に、担架にのせられて、運ばれていった。 「治りますよ」  と、朴刑事が、なぐさめるように、十津川にいった。 「長谷部という記者です。日本と韓国にまたがる覚醒剤のルートを、調べに来ていたんです」  と、パトカーに戻りながら、十津川は、説明した。 「ひとりで?」 「そうです」 「無茶なことをしましたね。カミカゼ取材ですよ」  と、朴は、いった。  十津川は、何もいえなくて、視線を、墓地にやった。  芝生の上では、盛装した韓国女性と、若い男を、ジャンパー姿の男が、写真に、おさめていた。 「新婚さんですよ」  と、朴が、笑顔になって、いった。 「写真を撮ってるのは?」 「多分、タクシーの運転手さんでしょう」  と、朴刑事が、いう。  その中《うち》に、新婚のカップルが、芝生の上で、抱き合い、また、それを、タクシーの運転手が、写真に、撮っている。 「韓国の若い人は、大胆ですね」  と、亀井が、感心したように、いうと、朴刑事は、苦笑して、 「韓国人も、変りました」  と、いった。  パトカーに戻って、走り出すと、無線が、飛び込んで来た。  日本の警察と同じで、数字の暗号が混じる。  朴刑事も、暗号で答えていたが、 「木崎の行方が、わかりそうですよ」 「本当ですか?」 「どうやら、彼は、慶州に向ったようです。日本から逃げて来た江崎と、そこで会うみたいですね。釜山では、警戒が、厳しいと思ったんでしょう」 「慶州へは、どうやって、行けば、いいんですか?」  十津川が、きくと、朴刑事は、 「これから、慶州へ行きます」  と、いい、アクセルを強く、踏みつけた。      2  韓国自慢のハイウェイを、飛ばす。時速は、百キロを軽く超えていた。  万一の時は、飛行機の滑走路にも使うというハイウェイである。  曇り空で、やたらに、蒸し暑い。途中で、やはり、雨が降り出した。  サービスエリアに寄って、ガソリンを入れる。  日本のサービスエリアと、同じ感じだった。  電話ボックスがあり、軽食も、とれるようになっている。  給油が終ると、また、走り出した。  慶州の標識が見えてきた。  その標識に従って、ハイウェイを出る。  観光バスが、何台も並んで、とまっているのは、日本の京都や、奈良と、同じだった。  朴の運転するパトカーは、慶州の市警察に、着いた。  ここにも、日本語を話せる呉正狗《ウージヨンピヨ》という刑事がいた。  日本人の観光客も多く、日本人の関係したトラブルが起きると、出かけて行くのだと、いった。  十津川と、亀井は、呉刑事が、紹介してくれたホテルコンコードに、チェック・インした。  東京に電話を掛け、西本刑事に、長谷部記者が見つかったことを話した。 「捕まって、どこかに、監禁されている間に、覚醒剤を、ずっと、射《う》たれていたらしい」  と、十津川は、いった。 「石川ひろみですが、身体は、順調に回復していますが、いぜんとして、何もしゃべらないようです」  と、西本は、いった。  翌朝、朴刑事から、電話があった。 「十津川さんは、慶州は、初めてですか?」  と、朴が、きく。 「ええ。初めてですが」 「それなら、仏国寺を、見物されませんか。千年以上前に建てられたお寺で、毎日、沢山の観光客が来ます」 「ありがたいですが、今は、観光をしている時じゃありません」  と、十津川が、いった。 「いや、ぜひ、見て下さい。木崎が、観光客のふりをして、現われるんじゃないかという情報が入ったんです」  と、朴刑事が、いった。 「それなら、これからすぐ、仏国寺へ行ってみますよ」  と、十津川も、笑顔になって、いった。  ホテルに頼んで、タクシーを呼んで貰い、十津川と、亀井は、仏国寺に向った。 「千年の都ですか」  と、亀井が、いった。 「だから、日本の京都や、奈良に似ているといわれるんだ」 「似てはいますが、違うようにも見えますね」  と、亀井は、タクシーの窓から、景色を見て、いった。  日本には、木造建築が多いのに比べて、この慶州は、石造りが多いからだろう。木と石の違いが、そのまま、雰囲気の違いになっている。  仏国寺も、石造りの寺だった。  二人は、タクシーを降り、他の観光客たちに混じって、仏国寺と書かれた門を入って行った。  日本人の団体もいる。  韓国の小学生の集団がいたのは、日本と同じ修学旅行らしい。  アメリカ人らしい、賑やかなグループも、来ていた。日本語、韓国語、英語が、入り乱れて、聞こえてくる。  眼の前に、大理石の階段と、同じく大理石の手すりがあった。  それを登りながらも、十津川と亀井は、周囲を見ていたが、木崎も、江崎の顔も見つからなかった。  十津川と、亀井は、仏国寺の境内を、ゆっくりと、歩き廻った。  樹齢何百年と思われるような大木が、境内に深い樹蔭を作っている。眼が疲れてくると、二人は、その緑や、慶州の町を取り巻く山々に視線を投げて、疲れを癒《いや》した。  古寺にいながら、何となく落ち着かないのは、木崎が、なかなか見つからないこともあるが、全てが、石造りのせいかも知れない。仁王像に似た彫刻もあったが、それも、また、石造りだった。  近くに、土産物店があり、二階建の大きな建物が、ずらりと並んでいて、壮観だった。  そこをのぞくと、韓国名産の紫水晶や、青磁などが、置いてあり、日本語の出来る店員が、声をかけてくる。  また、二人は、仏国寺に戻る。  突然、十津川の視界を、見覚えのある顔がよぎった。  あわてて、眼をこらした。  間違いなかった。木崎こと、金華淳である。  カメラを手に持ち、観光客然として、歩いているのだ。別に、周囲を、気にしている様子もない。 「いましたね」  と、亀井も、小声で、いった。  仏国寺の境内と、土産物店の並ぶ区域の間に、道路があって、自家用車や、観光バスが、とまっている。  木崎は、そこへ歩いて行くと、とまっていた一台の車に、乗り込んだ。  運転席にいたのは、若い男だった。たちまち、走り出した。  十津川は、タクシーを探した。が、見つからない。 (しまった)  と、思っていた時、背後で、警笛が、鳴った。  振り向くと、白い車の助手席から、朴刑事が、十津川たちを、手招きしている。運転しているのは、慶州市警の呉刑事だった。  十津川と、亀井が、リア・シートに乗り込むと、猛ダッシュをかけて、木崎の車を追った。  たちまち、仏国寺の外に出た。慶州も、ビルラッシュで、建築中のホテルが、目立つ。その間を、走り抜けた。  五、六キロ走ったところで、呉刑事は、急に、車を止めた。 「どうしたんですか?」  と、十津川が、きくと、呉刑事は、前方を見やりながら、 「木崎の行先が、わかったから、止めたんです。この先にあるのは、|金 元沢《キムウオンチユウ》の屋敷だけですからね」  と、いう。 「どういう男ですか?」 「元、政府の高官でしたが、汚職で、退官しました。汚職の理由は、日本の企業から大金を貰って、便宜を図ったんですよ。刑務所行にならなかったのは、優秀な弁護士が、十二人も、彼についたのと、その日本の企業が、こちらの政府に影響力を、持っていたからです」 「今は、何をしているんですか?」 「建設業ですが、問題の日本企業を通して、日本の地下組織と、関係を持ち、覚醒剤の輸出で、儲けているといわれています。日本では、金で、政治を動かせるようですが、わが国でも、同じです。金元沢は、退官したにも拘《かか》わらず、いぜんとして、力を持ち、金も、持っています」 「なぜ、木崎は、その男の屋敷へ行ったんでしょうか?」  と、十津川は、きいた。 「連中は、つながっていると、いうことですよ。お互いに、便宜を図っている」 「江崎も、その屋敷へ行くでしょうか?」 「それは、江崎に、まだ、利用価値があるかどうかに、かかっているでしょうね」 「なるほど。今の江崎は、警察に追われている殺人犯ですよ」 「アフリカのブビアには、影響力を、持つ男だと、聞きましたが」 「そうです。個人的に、ずいぶん、ブビア政府に、金を注ぎ込みましたからね。もっとも、その金は、覚醒剤で、儲けたものですが」 「そして、ブビアから武器を買い、クーデターを図った」 「ええ。武器を持った五十人の若者で、日本の政治を、何とか出来ると、思ったんですよ。子供っぽいといえばいえますが、図体の大きくなった今の日本は、そんなものでは、動かないんです」 「韓国にもブビア領事館があります」  と、呉刑事が、いった。 「ええ。知っています」 「その点で、江崎に、まだ、利用価値があると考えれば、金元沢は、彼に、救いの手を差し出すでしょうね」 「なるほど」 「われわれとしては、あの屋敷に、江崎が来て欲しいですね」  と、朴刑事が、いった。 「不法入国者に力を貸したということで、逮捕できますか?」 「そうです。木崎こと、金華淳が一緒にいれば、彼も逮捕できる」  と、朴は、いった。 「しかし、不法入国者をかくまったぐらいでは、大した罪には、出来ないんじゃありませんか?」  と、亀井が、きいた。 「いや、そうでもありませんよ。江崎は、日本で、武器を持った五十人の若者を使って、政府転覆を図ったわけでしょう。それが、この韓国へ逃げて来て、地下組織と結びつき、今度は、韓国で、政府転覆を図ったとなれば、これは、重罪です。それに、手を貸した人間もね」  と、いって、朴は、ニヤッと、笑った。  十津川は、不安になってきた。彼は、江崎を、逮捕し、日本に連れ帰って、日本の法律で、裁きたいのだ。  殉職した清水刑事のためにも、甲子園へ行くことを夢みながら殺されてしまったあの高校生のためにもである。  だが、朴刑事たちは、江崎を利用して、韓国の大物を、逮捕しようとしている。そうなると、江崎が、逮捕されても、日本に、連れて帰るのは、無理になってしまうのではないかという不安だった。 「確認しておきたいんですがね」  と、十津川は、二人の韓国の刑事に向って、いった。 「何をですか?」 「江崎を逮捕したら、日本に連れて帰りたいんですよ」 「どうぞ。ただ、こちらでの調べが、終ってからです」 「どの位かかりますか?」 「わかりませんね。ここは、韓国ですから、こちらの調べが先です。それは、わかって頂けるでしょうね?」 「それは、わかりますが──」  と、十津川が、いった時、呉刑事は、車を、スタートさせた。  スピードを遅くして、走る。  前方に、大きな屋敷が見えてきた。小高い丘の上に建てられた、まるで城のような家である。  糸杉の林が、その屋敷を取り巻いている。 「裏庭には、ヘリポートまでありますよ」  と、呉刑事が、いった。  彼は、また、車を止めた。 「金元沢を油断させて、江崎を、ここに連れて来させるようにしましょう」  と、呉刑事は、いい、車をUターンさせ、引き揚げることにした。      3  金元沢の屋敷には、パトカーは近づかない代りに、遠くからの望遠鏡や、夜は、暗視装置つきのカメラの監視下におかれた。  出入りする人間は、望遠レンズつきのカメラで、写真を撮られ、車は、ナンバーから、持主の名前が、割り出された。  二日目の夜、この屋敷で、盛大なパーティが、開かれた。  韓国に進出している日本の企業の幹部も、多数、出席した。韓国の政財界の要人もである。  各国領事館の領事も、何人か出席したが、その中に、ブビア共和国の領事も、含まれていた。  このパーティについて、慶州市警は、情報を集め、分析し、その結果について、捜査会議が、開かれた。  十津川と、亀井も、その会議に、出席することを、許された。  二人とも、韓国語がわからないので、会議の会話は、朴刑事が、通訳してくれた。 「注目すべきは、ブビア共和国の領事夫妻が、このパーティに招待されたことです」  と、呉刑事が、発言した。 「われわれが、得た情報によると、ブビア領事夫妻と親しい日本人が、パーティにいたというのです。それは、中年の男で、ブビア領事と、なつかしそうに、抱き合っていたといわれます。この領事ですが、釜山の領事館に着任したのは、二ヶ月前で、それ以前は、本国で、農業関係の責任者でした。となると、問題の日本人とは、ブビア本国で、それも、農業開発で、親しくなったと、考えられます。日本は、ブビアと国交を持っていますが、さほどの経済援助も、技術援助もしていません。とすると、この日本人が、江崎である確率が、大変高いと、思われるのです」 「われわれの監視をくぐって、江崎が、あの屋敷にもぐり込んだというのかね?」  と、署長が、きいた。 「もともと、われわれの監視は、わざと、ゆるくしてありましたし、屋敷には、トラックも、出入りしています。そのトラックの荷台に隠れて、屋敷にもぐり込むのは、簡単だったと思いますね」  と、呉刑事は、いった。 「不法入国者の江崎が、いるという確証がとれれば、踏み込んで、逮捕できるね。金元沢と、金華淳も、不法入国に手を貸した罪でな」  署長は、大きな声で、いった。  翌日から、監視は、強化された。ヘリも、飛ばされた。  更に三日目の朝、ヘリが、屋敷のベランダで、体操をしている男の写真を撮った。  ランニング姿の男である。  十津川と、亀井は、それを見せられ、江崎と、断定した。  少しばかり、前に会った時よりも痩《や》せてはいたが、間違いなく、江崎だった。  すぐ、屋敷を遠くから取り囲む形で、非常線が張られ、出て来る車は、全て、厳しく、チェックした。  江崎と、木崎こと金華淳は、屋敷から、出ていないためだった。  そうしておいてから、夕方になって、慶州市警の刑事三十人が、屋敷に突入することになった。  三十人の刑事には、三十八口径のリボルバー拳銃と、弾丸、警棒、手錠などが、渡された。  十津川と、亀井も、参加させて貰うことにした。正確に、江崎の顔を知っているのは、自分たちだけと、思ったからである。  拳銃も、三十八口径を借りた。  三十人の刑事たちと、十津川と亀井は、夕闇に隠れるようにして、屋敷に近づいて行った。 「抵抗があるものと、覚悟せよ」  というのが、出動する時の署長の注意だった。  百メートルまで近づいて、大きく散開した。  屋敷の塀に沿って、五台の監視カメラが、威圧するように、取りつけてある。  カメラには、暗視装置がついていない筈だから、夕闇の中に隠れた刑事たちの姿は、写らない筈だった。  高さ約二メートルの塀に、取りついた。  二人一組になった刑事は、片方が、もう一人を担ぎ上げるようにして、塀をのり越えていった。  その瞬間、今まで静まりかえっていたのが、突然、銃声が、起きた。  自動小銃の一斉射撃だった。  悲鳴をあげて、一人、二人と、刑事が、塀から転落して行った。  塀の内側に飛びおりた刑事たちが、拳銃で、応戦する。  まだ、外にいた刑事は、用意してきた催涙弾を、射ち込んだ。  たちまち、白煙が、立ちこめる。  十津川と、亀井も、拳銃を手にして、その白煙をかわしながら、突入して行った。  十津川は、金元沢や、木崎こと金華淳には、関心はない。逮捕したいのは、江崎一人だった。  拳銃を射ちながら、庭を横切り、こわされた窓から、中に入った。  灯《あかり》の下に、血を流して、男が、倒れている。  けたたましい自動小銃の発射音。弾丸が、空気を引き裂いて、飛んで来る。  十津川と、亀井は、倒れるように、大理石の床に伏せた。  射ち込まれる弾丸が、床に当って、はね返る。 「階段の上に一人います!」  と、亀井が、叫ぶ。  十津川は伏せたまま、拳銃を構えて、射った。横で、亀井も、射ち続けた。  人間が、階段を、転げ落ちて来た。  ぱっと、血が、飛び散った。白い大理石の床が、真っ赤になる。  十津川と亀井は、起き上り、江崎を求めて、階段を駈け上って行った。  刑事たちが、大声で、何か叫んでいる。  一人も逃がすな、とか、上へ行け、とかいっているのだろう。  二階のベランダが見えた。朝、江崎が体操をしていたベランダだった。  十津川と、亀井は、出てみたが、誰の姿もない。  いつの間にか、警察のヘリが、頭上に飛来して、強烈なサーチライトで、この屋敷を、照らしつけた。  突然、小さな爆発音がして、二階の奥から、炎が、吹きあがった。誰かが、火をつけたのだ。多分、この屋敷の主が、証拠|湮滅《いんめつ》を図ったのだろう。  また、自動小銃の発射音が、聞こえた。が、さっきより、弱々しくなっている。  十津川や、亀井の横を、拳銃を構えた刑事たちが、叫び声をあげながら、奥へ、突進して行った。  江崎は、なかなか、見つからない。  十津川と、亀井は、広い邸内を、一部屋ずつ、探した。  火事は、広がらない。建物に火をつけたのではなく、書類などを、焼却しただけだったのか。  高価な青磁の皿や、花びんが、ずらりと並べられた部屋に入った。  足を射たれた男が、床に転がって、呻《うめ》き声をあげている。 「江崎は、何処《どこ》にいる!」  と、十津川は、その男に、きいたが、日本語がわからないのか、怯《おび》えた眼になっただけだった。  刑事二人が、部屋に飛び込んで来て、容赦なく手錠をかけ、引き立てて行った。  逮捕された男たちが、中庭に、並ばされている。  負傷している者もいれば、催涙弾で、眼をくしゃくしゃさせている者もいる。  その中に、木崎こと金華淳はいたが、江崎の姿は、なかった。  刑事の一人が、大声で、 「この屋敷には、地下室があるぞ!」  と、叫んだ。  もちろん、韓国語だが、近くにいた朴刑事が、翻訳してくれた。  刑事たちが、駈け出した。十津川と、亀井も、その後を追った。  問題の地下室への入口が、わからなくて、刑事たちが、部屋から部屋を駈けめぐって、探し廻っている。  十津川と、亀井も、そこに、江崎も、隠れているのだろうと考え、必死になって、床を叩き、書棚のうしろを調べ、壁紙を引き剥《は》がしてみた。  だが、見つからない。  二人は、次第に、焦りを感じてきた。  江崎が見つからなければ、何にもならなかったからである。  大理石を敷き詰めたホールに出た。  そこを歩いていた亀井が、急に、立ち止まった。 「どうしたんだ? カメさん」  と、十津川が、声をかけると、亀井は、靴で、床を、けり始めた。 「音が、おかしいですよ」 「音が?」 「そうです。この辺だけ、他と、音が違います」  と、亀井が、眼を光らせた。  十津川も、亀井と同じことをやってみた。一メートル四方ぐらいの大理石を、張りつめたホールなのだが、隅の二枚だけが、音が違うのだ。 「この下か」  と、十津川も、真剣な眼つきで、張られている大理石の板を、注意深く、調べていった。  亀井が、どこからか、包丁を持って来て、問題の二枚の縁に差し込んで、動かしていった。 「この二枚だけ、剥がれそうですよ」  と、亀井が、声を弾ませた。  二人は、慎重に、二枚の大理石を引き剥がしていった。  その下に、ぽっかりと、穴が、開いていた。急な階段が、下へ続いている。  十津川と、亀井は、懐中電灯をつけ、その明りで、足元を照らしながら、地下へ降りて行った。  降りた所は、かなり広い地下室になっていた。日本風にいえば、三畳ぐらいの広さである。  懐中電灯で、照らすと、トンネルが、見えた。何処へ通じているのかわからないが、十津川と、亀井は、足元に注意しながら、そのトンネルを、進んで行った。  大人一人が、ゆったりと歩けるほどの広さと、高さがあった。  二メートル間隔に、電灯がついているのだが、今は、消えてしまっている。 「長いですね」  と、亀井が小声でいうと、その声が、反響した。  急に、前方が、明るくなった。そこで、トンネルは、行き止まりで、上に登る梯子《はしご》がついていた。  十津川と、亀井は、迷わずに、登って行った。  何処かの家の中に出た。明りがついているが、人の気配はない。  二人は、窓から、自分たちが、来た方向に眼をやった。  夜の暗さの中、遠くに、あの屋敷の灯が見えた。 「ここから逃げたんだ」  と、十津川が、いった時、足音と、話し声がして、慶州市警の刑事たちが、トンネルから、一人、二人と、上って来た。 [#改ページ]   第二十七章 射  殺      1  すでに、逃げた江崎の姿はない。  夜の景色の中に、原野が、広がっているだけである。  道路が、三方に伸びているが、いくら、眼を凝らしても、車は、見えなかった。 「残党は、車で逃亡したに決っている。とにかく、探すんだ!」  と、署長が、大声で、いい、刑事たちは、パトカーのところに引き返し、一斉に、三方に飛び出して行った。  十津川と、亀井も、車で、やみくもに、スタートした。  どの方向へ走れば、江崎を捕えられるのかわからなかったが、とにかく、じっとしていては、どうしようもないのだ。  十津川たちが、車を飛ばしたのは、釜山へ戻る道だった。  慶州へ来る時に寄ったサービスエリアも、通過した。  亀井が、運転し、十津川は、必死で、周囲に眼を走らせていた。日本と同じように、ハイウェイは、車が一杯である。トラックが、轟音を立てて走り、普通車が百キロくらいのスピードで、走っている。  江崎が、どんな車に乗っているかわからないので、見つけるのは、ほとんど、絶望に近かった。  それでも、二人は、車を、飛ばして行った。  突然、後方で、パトカーのサイレンの音がした。  バックミラーの中に、パトカーに追われている白い車が見え、それが、猛烈なスピードで近づいて来て、あっという間に、十津川たちの車を、追い越して行った。 「あいつだ!」  と、十津川が、思わず、叫んだ。  その車の助手席に、はっきりと、江崎の横顔を見つけたのだ。  十津川が、亀井の肩を叩き、亀井が、アクセルを、踏み込んだ。車が急加速される。  スピードが、百二十、百三十とあがっていく。  逃げて行くのは、白い韓国製の「現代《ヒユンダイ》」の中型車だった。  トラックや、乗用車を、次々に、抜きさって行く。  十津川たちのうしろからは、二台のパトカーが、必死になって、追いかけて来る。  もう、周囲の景色は、ほとんど視界から、消えてしまっている。十津川と、亀井は、前方を逃げて行く白い車だけを、見つめていた。  ふいに、その車が、左の道路に、切れ込んで行った。  亀井が、ブレーキを踏みながら、ハンドルを左に切る。  タイヤが、悲鳴をあげ、車体が、傾き、うしろの車輪が、滑る。  助手席の十津川は、両手を突っ張るようにして、放り出されそうになるのを防ぐ。  今度は、二車線の狭い道だった。  白い「現代」は、その狭い道を、百五十キロくらいで、飛ばして行く。追い越し禁止の道路だろうが、構わずに、追い越しをかける。その度に、警笛が鳴りわたり、怒声が、聞こえた。  白い「現代」は、追い越しては、前に切れ込んで行く。追い越された大型トラックは、あわてて、急ブレーキをかける。  追っている十津川たちの車は、そのトラックを、よけ切れずに、横腹が、接触した。  ガガッと、嫌な音が、聞こえた。亀井は、構わずに、アクセルを踏み続けた。  相変らず、後方から、パトカーのサイレンの音が追いかけて来る。スピーカーで、何か、叫んでいる。韓国語なので、何を叫んでいるのか、わからなかった。いや、わかっても、今は、無視して、江崎を追うより仕方がないのだ。  白い「現代」を、十五、六メートルまで、追いつめた時、突然、向うが、射《う》って来た。  江崎が、助手席の窓を開けて、射って来たのだ。  その弾丸が、十津川たちの車のフロントのどこかに命中したらしく、乾いた金属音がした。  十津川も、拳銃を取り出し、窓を開けた。  身をのり出すようにして、相手の車のタイヤを狙って、射った。  だが、なかなか、命中しない。  弾倉に入っていた六発は、たちまち、射ちつくしてしまった。 「くそ!」  と、十津川は、舌打ちして、身体を戻し、新しい弾倉を、装填した。  交叉点が近づく。が、白い「現代」は、信号を、無視して、走る。反対側から、交叉点に入ろうとした車が、あわてて、急ブレーキをかけて急停止する。  接触した車が、フロントをこわして、白煙を吹き上げている。  その光景も、たちまち、後方に、飛んでしまう。  道路は、山間《やまあい》に入って行く。日本とは違う、ゆったりした、山なみである。  その山なみの間から、突然、轟音をひびかせて、ヘリコプターが、姿を現わした。  強烈な投光器の光で、地上を照らし出しながら、近づいて来る。  警察のヘリと、思った。が、違っていた。そのヘリが、追跡している十津川たちの車や、パトカーを、狙撃し始めたからだ。  猛烈な射撃だった。  亀井が、車を、左右に振って、その狙撃をかわす。そのたびに、白い「現代」との距離が、開いていく。 「江崎たちが、自動車電話で、ヘリを、呼んだんだ」  と、十津川が、息をはずませながら、いった。  後方のパトカーの一台に、弾丸が命中して、煙があがった。  それを助けるために、もう一台のパトカーも、停《とま》ってしまった。  残った十津川たちの車を、ヘリが、追いかけ廻した。白い「現代」を、追いかける余裕がなくなってしまった。  必死になって、トンネルに、逃げ込む。  真ん中に、止めて、亀井は、車から降りて、うしろの車輪を見てみた。やたらに、ハンドルを取られるようになっていたからである。 「畜生!」  と、亀井が、叫んだ。 「どうしたんだ? カメさん」  と、十津川が、声をかけてくる。 「うしろのタイヤが、射ち貫かれて、めくれあがっています。転覆しなかったのが、不思議です」  と、亀井が、いった。  二人は、トンネルの中で、タイヤの交換に取りかかった。 「これで、江崎には、逃げられましたね」  と、亀井が、いまいましげに、いった。 「まだ、諦めるのは、早いよ。少くとも、江崎の車は、戻って来なかったんだから、この先にいるのさ」  十津川は、自分にいい聞かせるように、いった。 「この先は、何処《どこ》へ行くんですか?」 「わからんね。道をききたくても、私は、韓国語が、出来ないんだから」  と、十津川は、いった。  タイヤの交換がすむと、十津川は、 「すぐ、出かけよう」 「しかし、まだ、ヘリの音が、聞こえていますよ」 「だから、行くんだよ。ヘリの攻撃が、執拗すぎるからな。ひょっとすると、この近くで、江崎は、ヘリに乗り込む気なのかも、知れない。だから、この周辺から、われわれを、追い払う気なんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「行きましょう」  と、亀井も、いった。  車に乗り込み、今度は、十津川が運転して、走り出した。  トンネルを抜ける。  すぐ、また、ヘリが、攻撃して来るものと、覚悟したが、問題のヘリは、一直線に、山間《やまあい》に、消えて行った。 「行くぞ」  と、十津川は、いい、ヘリの消えた方向に向って、スピードを速くした。  また、長いトンネルに入った。抜けると、高原が、広がっていた。月明りが、地上を照らしている。  その高原に、先刻のヘリが、停っているのが見えた。  ヘリに向って、白い車が、近づいて行くのが、見えた。江崎の乗った車だった。 「乗せるな!」  と、思わず、十津川は、叫んだ。 「どうします? 警部。このままでは、間に合いませんよ」 「ヘリを壊せば、江崎だって、逃げられない筈だ」  と、十津川は、車を走らせながら、大声で、いった。  亀井も、拳銃を取り出した。  十津川は、江崎の白い「現代」とは、反対側から、ヘリに、迫って行った。  ヘリは、ゆっくりと、回転翼を動かしている。それが、急に、速くなって来るのが、わかった。江崎たちを収容して、飛び立とうとしているのだ。  亀井が、ヘリに向って、拳銃を射った。何とかして、ヘリが、飛び立つのを、止めたかったからである。  時間との戦いだった。  まだ、ヘリは、飛び立たない。が、すでに、小刻みに、大きな身体を、ふるわせている。  十津川も、ハンドルを片手で押さえ、窓から、拳銃を射った。  弾丸が、ヘリの燃料タンク近くに、命中する。  だが、なかなか、発火しない。  十津川は、車を止め、飛び降りると、亀井と、同じく、燃料タンクめがけて、射ち続けた。  ヘリの方からも、ライフルが、射ち返されて来る。  突然、眼の前が、真っ赤になった。  ヘリの燃料タンクに、火がついたのだ。  ばらばらと、ヘリから、人影が、飛び降り、その中の二人が、白い車に逃げ込むのが、見えた。  地ひびきを立てて、ヘリが、爆発した。  十津川と、亀井は、車に走り込み、走り出した。爆発して、飛散したヘリの破片が、降って来て、車の屋根に命中して、音を立てる。  江崎の車は、スピードをあげて、逃げ出して行く。  亀井の運転する十津川たちの車は、再び、追跡に移った。  月明りの下で、相手は、高原を走りおりて行く。それを、追う。  車は、猛然と、バウンドし、つんのめるようにして、走った。  十津川は、ゆれる車内で、新しい弾倉を、拳銃に、装填した。  向うの車が、道路に出た。こちらも、舗装道路に、飛び込む。  街灯の明りの中で、十津川は、狙いをつけて、向うの後部タイヤを狙った。  一発、二発、三発目に、命中した。  瞬間、相手の車が、よろめいた。  縁石にのりあげて、白い「現代」が、横転した。  亀井が、急ブレーキをかけ、車が、止まると同時に、二人は、外へ飛び出した。  十津川たちは、横転した車に、駈け寄った。  運転席の若い男は、口から血を吐いて、ぐったりとしている。  江崎が、呻《うめ》き声をあげながら、這《は》い出して来た。  十津川は、彼に近づくと、拳銃を、江崎に突きつけた。 「もう逃がさんぞ」  と、十津川は、低い声で、いった。      2  江崎は、逮捕され、釜山市警に、連行された。  木崎こと、金華淳と、金元沢も、逮捕された。  日本と、韓国をつなぐ覚醒剤ルートの一部が、これで、潰されたことになる。  十津川にとって、問題なのは、江崎を、日本へ、連れ帰ることが出来るかどうかということだった。  韓国の警察は、江崎を、不法入国で、逮捕している。それだけならば、強制送還ということで、日本に、送り返して貰えるのだが、狙いをつけていた金華淳や、金元沢を、不法入国を助けた罪で、起訴したい意向も、持っているのである。  そうだとすると、江崎は、韓国で、裁判にかけられ、服役することになりかねない。  それでは、十津川は、困るのだ。  十津川は、釜山の日本領事館にも頼んで、一刻も早く、江崎を、日本へ、送還してくれるように、韓国の警察に、要請することにした。  だが、最初は、うまくいかなかった。  副領事の武末は、十津川に、向って、 「釜山法務局にも、かけ合ってみたんですがね。向うは、江崎を、韓国の法廷に引っ張り出すと、いっているんです。江崎も、協力的で、ペラペラ喋《しやべ》っていて、必要な証人でもあると、いってるんです」  と、いった。 「それは、江崎が、日本に送り返されれば、死刑の判決を受けることは、間違いないからですよ。それで、必死になって、韓国の警察に、協力しているんです」  と、十津川は、いった。 「そうかも知れませんが、ここは、韓国ですし、韓国の警察が、逮捕したわけですからね。こちらの要望だけを、一方的に、いうことは、出来ませんよ」  と、武末は、いう。  十津川は、釜山市警に行き、文刑事に、通訳して貰って、署長に、頼むことにした。 「私の部下に、清水という、若くて、優秀な刑事がいたのですが、江崎のおかげで、殺されました。他に、江崎が、覚醒剤を、密売したために、何人もの人間が、死んだり、今でも、動けずにいます。江崎は、その儲けた金で、クーデターまで起こしているのです。日本の警察の一員である私は、何としてでも、江崎を、この手で、罰したいのですよ。日本の警察の面子《めんつ》もあります。この気持は、わかって頂きたいのですよ」  と、十津川は、いった。 「日本の警察の面子があると、おっしゃるのなら、われわれにも、韓国警察の面子というものがありますよ」  と、署長は、主張した。 「もちろん、そうでしょう。私の場合は、面子の他に、部下の仇も、とりたいのです」 「私だって、覚醒剤の一連の事件では、何人かの部下を失っていますよ」  と、署長も、厳しい表情で、いった。  そういわれてしまうと、十津川には、返す言葉がない。  十津川としては、最後に、 「転倒した車から、江崎が出て来た時、私は、彼の頭に、拳銃を突きつけました。あの瞬間、私は、本気で、彼を射殺しようと思いました。殺された部下の顔や、覚醒剤に絡んで死んでいった人たちの顔が、二重写しになったからです。しかし、私は、射殺しなかった。それは、ここでは、韓国の主権だから、自分の勝手にすることは許されないと、思ったからです。それを、考えて頂きたいと思います」  と、いった。  あとは、韓国側の対応を待つより仕方がない。どうなるかわからないので、東京の三上刑事部長からは、いったん、帰国するようにという指示があったが、十津川は、韓国に残る決心をした。こちらの気持を、韓国の警察関係者に、わかって貰いたかったからである。  韓国の新聞は、連日、今回の事件を、大々的に、取りあげた。  日本の「ヤクザ」が関係していることが、大きく扱われていたが、日本の警察が、逮捕に協力したことは、小さくしかのっていなかった。 「これを見ると、あまり、前途は、明るくありませんね」  と、亀井が、十津川に、いった。 「私は、そうは思わないよ」  と、十津川は、いった。同じ警察官だし、部下を死なせた無念さは、わかって貰える筈だと、考えていたからである。  だが、十津川と、亀井は、空しく、釜山市内のホテルで、何日間か過ごした。  釜山市警の文刑事に電話しても、留守だという返事しかなかったし、武末副領事は、今回の事件は、韓国の政界に波及するかも知れず、日本の警察の要請を考慮している余裕はないのではないかと、十津川に、いった。  十津川も、次第に、悲観的になっていった。  もし、江崎が、日本に戻されないとすると、四十九人の青年たちや、野崎裕子を起訴した場合、肝心の主役の江崎周一郎が、法廷に現われないことになってしまう。  主役不在の裁判は、色あせてしまうのではないか? 少くとも、間の抜けたものになってしまうだろう。  明日は、諦めて、帰国しようと決めて、十津川が、東京に、電話を入れていた時に、文刑事が、会いに、やって来た。 「すぐ、署へ来て下さい」  と、十津川に、いう。 「何か、事態が変ったんですか?」  と、十津川は、きいたが、 「私には、何もわかりません。とにかく、署長に、会って下さい」  と、文刑事は、いうだけだった。  十津川と、亀井は、釜山市警に行き、署長に会った。  改めて、江崎の引き渡しを拒否されるのかと覚悟していたのだが、署長は、意外に、にこやかに十津川を迎えて、 「喜んで下さい。江崎周一郎を、あなた方に、引き渡してよいという決定が出ました」  と、いった。  それでも、十津川は、半信半疑で、 「本当ですか?」  と、きいてしまった。ひょっとして、通訳が間違ったのかも知れないと、思ったからである。  署長は、笑顔を崩さずに、 「本当です。二時間前に、許可がおりました」 「しかし、なぜ、急に、日本に送還していいことになったんですか?」  と、十津川は、きいてみた。 「射殺ですよ」  と、署長が、いう。 「射殺って、何のことですか?」 「あなたがいわれたじゃありませんか。江崎を捕えた時、部下が殺されたことを思い出して、射殺しようとしたと」 「ええ。いいましたが──」 「私は、それを、上の人に、いったんです。もし、十津川警部が射殺していたら、江崎の自供もとれなかったんですとね。それを考えれば、自供がとれた今、身柄を、十津川警部に引き渡しても、いいんじゃないかと、いいました」  と、署長は、いう。 「それで、許可は、すんなり、おりたんですか?」 「いや、そう簡単ではありませんでしたね。反対意見の方が、強かったからです。私も、何回かソウルに呼ばれて、いろいろと、質問されました。今日も、ソウルに呼ばれて、こう質問されました。もし、君の部下を殺した男が、日本に逃げ込み、追いかけて行ったら、どうするかとね」 「それで、どう答えられたんですか?」 「私は、感情の激しい方だから、犯人を見つけたら、多分、射殺してしまうだろうと、答えましたよ。だから、十津川警部の気持は、よくわかるとも、いいました」  と、署長は、いった。 「ありがとうございます」 「それで、急に、許可がおりたんですよ。すでに、自供も、全て、とってしまったから、送還してもいいだろうということに決ったわけです。あなたが、射殺してしまっていたら、自供は、とれなかったんです。それを、考えてくれたんだと、思いますね」  と、署長は、いった。  江崎の引き渡しは、明日の昼前と決った。通訳してくれた文刑事が、 「よかったですね。お祝いに、夕食でも、どうですか」  と、誘った。  亀井も含めて、三人で、釜山市内の光復洞近くの食堂街に、出かけた。  その一軒で、チゲ定食を食べ、酒を飲んだ。  韓国も、今、カラオケブームで、この店にも、カラオケがあった。  十津川も、酔いに委《まか》せ、唯一、知っている韓国の歌「釜山港へ帰れ」を、唄った。  翌日の午前十一時に、江崎が、十津川たちに引き渡された。  午後一時十五分(一三時一五分)釜山発の日航機で、帰国することにした。  空港には、朴刑事と呉刑事の二人が、送りに来てくれた。 「途中で、長谷部記者の入院している病院に、寄って来ましたよ」  と、朴刑事が、十津川に、いった。 「彼は、大丈夫ですか?」 「大丈夫です。薬漬けにされていたといっても、短期間でしたからね。医者は、完治すると、約束してくれました」  と、朴刑事は、いった。 「お礼を、申しあげます」  と、十津川は、頭を下げた。  十津川と、亀井は、手錠をかけた江崎を、両側からはさむようにして、飛行機に、乗り込んだ。  座席は、最後尾の場所にした。 「逃げないから、そんなに、きりきりしなさんな」  と、江崎は、十津川に向って、笑った。 「別に、きりきりしてるわけじゃない。あの時、君を射殺しておいた方がよかったかなと、考えているんだよ」  と、十津川は、いった。  その言葉で、江崎の笑いが、消えてしまった。 「清水刑事を殺したのは、私じゃない」  と、江崎は、弁解するように、いった。 「君は、指示しただけか?」  亀井が、江崎を睨んだ。 「殺せとはいわなかった」 「じゃあ、何といったんだ?」 「伊原要一郎が、清水刑事に眼をつけられて、悲鳴をあげているんで、私が、何とかしてやれと、いっただけだよ。殺せとはいわなかった」 「誰に、何とかしてやれと、いったんだ?」 「私は、上京する北斗星4号の車内で、清水刑事に、この事件から、手を引くように、説得しろといっただけだ」  と、江崎は、いう。 「現職の刑事が、殺人事件から、手を引くとでも思っていたのかね?」  十津川は、ぶぜんとした顔で、江崎を見た。 「死ぬよりは、いいんじゃないのかね?」 「何だと!」  と、亀井が、思わず、声を大きくした。 「カメさん」  と、十津川は、亀井を制してから、 「そして、アフリカから戻っていた若者が、清水刑事を刺殺したというのかね?」  と、江崎に、きいた。 「そうだ。清水刑事が、こちらのいうことを聞いてくれていたら、死ぬこともなかったんだよ」  と、江崎は、また、いった。 「盗っ人にも何とかというやつだ」  十津川が、吐き捨てるようにいうと、江崎は、顔色を変えて、 「私は、盗っ人なんかじゃない」 「じゃあ、人殺しか? 覚醒剤のブローカーかね?」 「私は、愛国者だ」  と、江崎は、大声を出した。丁度、通路を歩いて来ていたスチュワーデスが、びっくりした顔で、こちらを見た。 「愛国者だと?」 「そうだ。今の日本を、もっと、強い国家にしたい。そのためには、今の軟弱な政財界人を、一掃しなければならないんだよ。そのためには、金がいる。それを、覚醒剤で、手に入れて、どこが悪い。崇高《すうこう》な目的のためには、手段は、正当化されるんだ」 「殺人も、正当化されるのか?」 「目的が、大きい時には、犠牲は仕方がないよ。それは、今までの歴史が証明している」  と、江崎は、いった。  冗談の調子ではなかった。江崎は、本気で、そう信じているのだ。  十津川は、そう感じた時、初めて、不気味さを覚えた。  こんな江崎を信じて、殺人までやるような若者が、五十人もいたことにである。 「そんな崇高な目的を持った人間が、なぜ、仲間を捨てて、韓国に逃げたんだ? 卑怯じゃないか? 崇高が泣くんじゃないのかね」  と、亀井が、からかうように、いった。  江崎の顔が、赤くなった。 「私の計画は、正しかったんだ。ただ、時が、味方しなかった。だから、一時、身を隠し、資金を貯え、捲土重来《けんどじゆうらい》を期したんだよ。五年、逃げていられれば、また、資金は溜る。その時までに、子供たちの大半は、出所している筈だ。人間は、刑務所で鍛えられるというから、今よりもっと逞しくなっている筈だ。そんな彼等を率いて、もう一度、クーデターをやる。そのために、私は、逃げたんだよ」 「夢物語だね」  と、十津川は、いった。 「夢だって?」 「そうだよ。確かに、あの若者たちの大半は、殺人をやっていないから、短い刑期になるだろう。しかし、彼等が出て来た時、君は、多分、この世にいない筈だよ」  と、十津川は、いった。 「私が、死刑になるというのかね?」 「君が、指示して、あるいは、命令して、何人の人間が、死んだと思っているんだ? 死刑は、覚悟の上だったんだろう? 違うのかね?」 「私が、いろいろ指示を与えたという証拠は、何処にあるんだ?」  と、江崎が、笑った。 「法廷が、証明するよ」  と、亀井が、いった。 「私は、優秀な弁護士を、何人も使って、戦うよ」  と、江崎は、いった。  一時間五十分で、十津川たちの飛行機は、成田に着いた。  空港には、西本たちが、迎えに来ていて、すぐ、江崎を、捜査本部に、連行した。  途中で、何事も起こらず、江崎を、留置して、十津川は、ほっとした。  十津川は、三上部長に、韓国での経過を報告した。 「話のわかる人たちで、助かりました。そうでなかったら、江崎の身柄は、まだ、韓国にとめられていたと思います」 「あとで、私からも、礼状を、出しておこう」  と、三上は、いってから、 「問題は、江崎だが、自供しそうかね?」  と、きいた。 「あの男は、愛国者気取りです。全て、国を愛したから、やったんだと、いっています」  と、十津川は、いった。 「愛国者か」 「また、自尊心のかたまりみたいな男でもあります。その点を、探れば、何もかも、ベラベラ、喋るかも知れません」 「そうあって欲しいがね」 「他の連中は、どうしていますか?」  と、十津川が、きいた。 「全員が、黙秘しているよ」  と、三上が、いった。 「黙秘ですか」 「そうだよ。多分、江崎が、逃げていたからだろう。江崎が、逮捕されたので、連中が、どう出るか、それも、楽しみにしているんだがね」  三上は、そういった。 「若者たちは、どうしていますか?」  と、十津川は、きいてみた。一番、気になったのは、連中のことだったからである。 「彼等の気持は、わからんね。まさに、昔の軍隊だな。黙秘も、一糸乱れずの感じで、やっているからね」 「昔の軍隊と同じなら、一度、崩れ出せば、見事に瓦解《がかい》しますよ」  と、十津川は、いった。 「そうあって、欲しいね」  と、三上も、いった。 [#改ページ]   第二十八章 回復への道      1  十津川が、韓国へ行っている間に、破壊された放送局と、ブビア大使館は、修理され、普段通りの業務を行っていた。  だが、今度の事件が、与えた影響と傷は、なかなか、治っていないようだった。  政界では、副総理をはじめ、大臣たちの私邸や別荘が、爆破されたり、機動隊に死傷者が出たこともあって、治安対策に追われていたし、ブビア国に対する外交を、今後、どうするかで、もめている。  何といっても、五十名の若者が、武器を持って、一時は、NHK放送センターを占拠し、副総理をはじめ、各大臣を、殺そうとしたのである。  新聞は、この事件を、クーデターと呼んだり、テロと、書いたりした。  どちらにしろ、五十人の若者たちの行動は、一時的にしろ、成功しかけたのである。首相が殺されなかったのは、たまたま、彼が、日本を離れていたからで、もし、私邸にいたら、間違いなく、標的にされていただろう。  急遽《きゆうきよ》開かれた国会では、こうしたテロの再発を防ぐには、どうしたらいいかが、質疑された。十津川が、帰国した時も、その質疑は続いていた。 「五十名の若者が、武器を持って暴れただけで、パニックになった。たったの五十名ですよ。もし、それが、百人になったら、どうなるのか。それを考えたら、背筋が冷たくなります。退屈して、何かしでかしたいと考えている若者が、今、日本に、何人ぐらいいると思いますか? そうした連中に、ある個人なり、団体なりが、武器を持たせて煽動したら、どうなりますか? 政府は、こうした問題に対して、どんな予防手段を持っているのか、答えて頂きたい」  と、野党の議員が、質問する。 「そういう仮定の質問には、答えられません」  と、法務大臣と、警視庁の警備局長が、答弁する。 「何をいうんですか。現実に、五十名の若者が暴れ廻ったじゃありませんか。建設大臣だって、危うく、殺されかけた。NHK放送センターは、半日の間、彼等に占領され、彼等の主張を放送したんです。あれは、悪夢ではなく、現実なんです。彼等の行動に刺戟《しげき》されて、今度は、百名の若者が、暴れたら、どうしますか? その対策を聞かせて欲しいと、いっている。その連中は、そこに並んでいる大臣方を、殺すかも知れんのですよ」  質問者の質問が、エスカレートしていくのだ。  それに対して、法務大臣も、警備局長も、的確な対応策を、提示できない。  困ったことに、江崎たちの行動を、礼賛する人たちが、現われた。  一部の雑誌だが、彼等の行動は、「平和ボケした日本人に対する強烈な警鐘である」と書いた。  それだけではない。この雑誌は、若者たちにアンケートをとったと書き、その結果を、次の数字で、表わした。 ㈰今の政治家たちを目覚めさせるには、何が一番、効果があると思いますか? (A)選挙による 15% (B)例の事件のように、実力で脅す 35% (C)わからない 20% (D)何をしても駄目 30% ㈪もし、君が、武器を持っていたら、今、何をしたいと思いますか? (A)何もしたくない 40% (B)武器を持って立ち上り、今の腐った社会を改革したい 45% (C)わからない 15% ㈫今、殺したい政治家や、財界人、知識人、タレントが、いますか? (A)いる 80% (B)いない 15% (C)わからない 5% 「あまりいい兆候とはいえないよ」  と、本多が、その雑誌を、十津川に見せて、いった。 「少しずつ、連中の行動を、是認する空気が、広がりつつあるわけですか」 「そうだ。現実が、悪ければ、悪いほど、そうなってくる。世の中は、若者の、止むに止まれぬ気持が、あの行動になったと思っているからね」 「しかし、リーダーの江崎は、単なる覚醒剤のブローカーで、人殺しの首謀者ですよ。社会のため、国のためなんていうのは、自分を飾るための嘘です」 「それを、証明できるかね?」 「やってみますよ」  と、十津川は、いった。      2  だが、いざ、訊問に出ると、十津川も、亀井も、手を焼いた。  面会に来た弁護士に、社会の反応を聞いているのだろう。自信満々な顔で、黙秘を続けるのだ。他の若者たちと、同じだった。 「黙秘のままでも、検事は、起訴できると、いっているんじゃありませんか?」  と、亀井が、十津川に、きいた。 「もちろん、出来ると、いっているよ。連中が、武器を持って、テロや、放送局を占拠したのは、まぎれもない事実だからね」 「それなら、このまま、送検したら、どうですか? 連中の行動が、テロであれ、クーデターであれ、有罪は、間違いないでしょう?」  と、亀井は、いう。 「そうだが、それでは、連中を、英雄にしかねない。たとえ、死刑の判決があっても、清水刑事は、浮ばれないよ。江崎が、シャブの売人で単なる人殺しだということを、証明しなければ、一連の事件は、解決したことにならないんだ」  と、十津川は、腹立たしげに、いった。 「しかし、江崎は、それを認めませんよ」 「わかってるよ」 「どうしますか?」 「カメさんは、江崎のことを、どれだけ、知っているね?」 「シャブのブローカーで、人殺しです。証明は、難しいですが」 「私が、いっているのは、その前だよ」 「しかし、今度の事件に関係する以前のことは、意味がないでしょう?」 「だから、知りたいんだよ」 「意味が、わかりませんが」 「いいかね。江崎は、自分の勝手な夢のために、覚醒剤を売って、何人もの人間を廃人にし、人を殺した。殺させたというべきかな。そんな男なら、前にも、何か、やっている筈だ。それを、知りたい」  と、十津川は、いった。 「調べるのは、大変ですよ」 「わかっているさ」  と、十津川は、いった。  その捜査は、時間との戦いにもなった。検察も、警察の上層部も、一刻も早く、今度の事件を片付けたがっていたからである。解決が長引けば長引くほど、今度の事件が、社会に及ぼす影響が、大きくなると、危惧したからだった。  そんな空気の中で、十津川は、亀井や、西本たちを、叱咤《しつた》激励して、江崎の過去を、洗わせた。  江崎は、国立大学政経学科を、優秀な成績で卒業していたが、学生時代の江崎は、どちらかといえば、大人しい勉強家だったという。  同窓生のほとんどが、目立たない男で、酒も飲まず、遊びもせず、今度のような事件を起こすとは、とても、考えられなかったといった。  また、江崎が、在学中、周辺で、未解決の事件は、起きていなかった。  大学を卒業すると、江崎は、大企業であるM商事に入社した。  そこで、九年間、働いている。アフリカにも、二年近く、赴任している。行先は、ブビアではなかったが、アフリカとのつき合いは、この頃からになるだろう。  結婚し、妻の財産が手に入ると、九年間勤めたM商事を辞め、横浜で、小さな商事会社を、作った。  江崎商事である。自宅も、横浜市緑区にあった。  主に、東南アジアの雑貨、衣類、靴などの輸入を仕事として、かなりの収益をあげていたが、ある日、突然、会社を投げ出し、現在の都内のマンションに、移ってしまった。  今から、七年前である。  その後、江崎は、また、江崎交易を作り、別荘を、箱根仙石原に買った。そして、覚醒剤に、手を染めていく。  十津川は、七年前に、注目した。  突然、横浜の会社を投げ出し、住所を変えたのには、何かあったに違いないと、思ったからである。  十津川は、亀井と、神奈川県警に出向いた。  七年前の江崎周一郎について、調べてくれというバカな頼み方はしなかった。江崎には、前科がないのだから、警察に、彼の記録がある筈がないからである。 「七年前の一年間に、横浜市内と、その周辺で起きた事件を、調べて欲しいのです」  と、十津川は、県本部長に、頼んだ。 「一年間というと、ひどく漠然としているねえ」  と、本部長は、眉をひそめた。 「凶悪な事件に、絞って下さい」 「それでも、かなりの数だよ」 「その中で、未解決の事件だけで、結構です」  と、十津川は、いった。  本部長は、刑事課の平木というベテランの警部に、その作業を、やらせた。  平木は、五十二、三歳で、叩きあげの刑事という感じだった。 「なぜ、こんな昔のことを、調べるんですか?」  と、平木は、当然の質問をしたが、十津川は、 「申しわけないが、今は、答えられないんですよ」  と、いった。  平木が、その作業をやってくれている間も、十津川は、電話で、呼び戻され、三上刑事部長から、叱責された。 「さっきも、地検から文句をいわれたよ。なぜ、例の事件の被告人たちを、送検して来ないのかとね。連中の犯行は、確定しているんだから、黙秘していても、送検できるだろう?」 「もう少しで、自供も得られます。地検にも、もう少し、時間をくれるように、いって下さい」  と、十津川は、三上に、いった。  うるさいのは、地検だけではなかった。法務大臣も、一刻も早く、事件を処理するようにと、指示して来ていた。  十津川は、その間隙《かんげき》を縫うようにして、もう一度、神奈川県警に出かけた。  平木警部が、七年前の未解決凶悪事件を、拾いあげてくれていたからである。  平木は、十津川と、亀井を迎えると、 「七年前の未解決事件は、二件ですが、一件と考えることも、出来ます」  と、いった。 「つまり、犯人が、同一人ということですか?」  と、十津川は、きいた。 「そうです。犯人は、同一人と思われる殺人事件です」 「どんな事件か、話して下さい」 「第一の事件は、六月三日に起きました。月曜日の深夜で、ファッションマッサージの若い女が、殺されて、発見されました。名前は、森山佳子。二十二歳です。彼女の持っていたベンツの車内で、暴行を受けて、胸を刺され、殺されていました」 「もう一件は?」 「次は、同じ六月十七日のこれも、深夜です。銀座のクラブの二十五歳のホステスで、横浜市緑区に住んでいたんですが、この日、彼女は、店を休みました。彼女は、前夜から、ボーイフレンドと、彼女の車で、ドライブに行き、夜になって、帰宅しました。ボーイフレンドは、タクシーを拾って、帰り、彼女は、自分の赤いポルシェ911を、自宅マンションの駐車場に入れて、降りようとしたところを、犯人に、襲われて、殺されました」 「この二つの事件が、同一犯人だという証拠は、何かあるんですか?」  と、十津川は、きいた。 「二人とも、胸を刺されているんですが、犯人は、まず、被害者の顔を殴りつけ、大人しくなったところを、暴行したあと、胸をはだけ、乳房の下を、ナイフで、刺しているわけです。それから、犯人の精液から、血液型は、A型と、わかっています。もっとも、A型というのは、日本で一番多いわけですから、犯人を限定する力には、なりませんでした」  と、平木は、いった。 「被害者は、二人とも、水商売の女性という共通点がありますね」  と、十津川は、いった。 「そうです。それと、これは、共通点といっていいかどうかわかりませんが、二人とも、高級車に乗り、豪華マンションに住み、高価なダイヤの指輪をしていました」 「犯人は、そういう女に、腹を立てていたのかも知れませんね」 「かも知れませんが、殺すことはないと思いますよ」  と、平木は、いった。 「それで、犯人の遺留品といったものは、何か見つかったんですか?」 「一つだけ見つかりました」 「何ですか?」 「第一の事件ですが、被害者が殺されていたベンツは、この日、彼女のところに、納入されたものだったのです。彼女は、まっさらな車に乗ってみたくて、深夜に、乗り込み、ドライブを楽しもうと思ったようです」 「納入されたばかりの車だとすると、車内につけられた指紋が、限定されますね?」  と、十津川は、平木の眼を見た。 「そうです。犯人のものと思われる指紋が、車内から二つ見つかったのです。右手の親指と、人差指の指紋です」  平木は、いい、その指紋を、十津川と、亀井に、見せた。 「この二つが、犯人のものだと断定できるんですね?」  と、十津川は、念を押した。 「まず、間違いありません」 「それで、この指紋は、捜査に、役立ったんですか?」 「駄目でした。前科者カードには、ありませんでしたし、二人の被害者の関係者を、全部、調べましたが、該当する指紋の持主は、見つかりませんでした」 「そうですか」 「被害者の友人、知人の中には、犯人はいないという結論になっただけでした」  と、平木は、小さく首をすくめてみせた。      3  十津川は、平木と別れ、亀井と、パトカーに乗り込むと、 「うまく、いくかも知れないぞ」  と、眼を光らせて、いった。 「何がですか?」  亀井が、ハンドルに手をやって、十津川にきく。 「今聞いた二つの事件は、六月三日と、六月十七日に起きている」 「ええ」 「江崎周一郎が、横浜市内の江崎商事を、突然、クローズして、東京に引越したのは、七月一日だよ」 「つまり、江崎が、この二つの暴行殺人事件の犯人ではないかということですか?」 「そうなら、ありがたいということさ」  と、十津川は、いった。  捜査本部に戻ると、十津川は、すぐ、江崎周一郎の指紋と、照合することにした。  江崎の指紋は、逮捕し、日本に、連行したあと、十指について、採取してある。  比べると、よく似ていたが、照合は、専門家に委《まか》せることにした。  その結果がわかったのは、一時間後である。答は、十津川の期待したものだった。同一の指紋だというのである。  十津川は、急に、肩の荷がおりたような気がした。  十津川は、取調室に、江崎を、連れて行った。  江崎は、相変らず、自信満々の顔をしていた。留置場では、体力を落とさないために、自己流の体操をしていたと、十津川は、聞かされていた。 「何をきかれても、答えんよ。雑談には、応じるがね」  と、江崎は、いった。 「もう、何もきかないさ」  と、十津川が、いうと、江崎は、驚いた様子で、 「黙秘のまま、送検というわけか? 警察としちゃあ、面白くないだろうね」 「実は、君の身柄を、他へ移さなければならなくなったんで、それを、知らせようと思ったんだよ」  と、十津川は、いった。 「他へ? ああ、函館かね? しかし、無駄だと思うね。私は、最近、函館へ行ったこともないからね」 「函館になんか、君を移す気はないよ」 「───」 「君を移すのは、横浜だよ。神奈川県警へだよ」 「横浜?」  急に、江崎が、不安げな表情になった。 「向うで、君は、婦女暴行と殺人で、取調べを受けることになるんだよ」  と、十津川は、いった。  江崎の顔が、青ざめた。 「何のことか、わからないね」 「七年前の六月三日と、十七日に、水商売の女が、横浜で、殺されている。深夜、彼女たちの車の中でだよ。殴られ、暴行され、胸を刺されたんだ。一人は、ファッションマッサージの女で、もう一人は、銀座のクラブのホステスだ」 「何のことをいってるのか、わからんね」  江崎が、必死の顔で、いった。 「犯人は、君だ」  と、十津川は、ズバリと、いった。 「証拠があるのか? 証拠が」  江崎が、噛みつくような表情になった。 「それが、あるんだよ」 「バカな!」 「六月三日の事件の時、車の中で、殺されたんだが、車内に、犯人のものと思われる右手の指紋があった。親指と、人差指の指紋だ」 「それが、どうしたのかね?」 「君の指紋だ。今、照会の結果が出たんだよ。君の指紋が、殺人現場であるベンツの車内に、あったんだよ」 「ファッションマッサージの女だといったね? 殺されたのは」 「そうだよ」 「それなら、私の指紋があっても、おかしくないよ」 「なぜだね?」 「私も、男だから、ファッションマッサージに、遊びに行ったことがある。その時、彼女の車に乗せて貰ったことがあったよ。その女の子の名前は、忘れてしまったがね。だから、彼女の車に、私の指紋があっても、おかしくないんだ」 「その時、殺したのかね?」 「とんでもない。私が、食事に誘ったのさ」  と、江崎は、いう。  十津川は、クスクス笑い出した。  江崎は、十津川を睨んだ。 「何がおかしいんだ?」 「彼女の車はね、その日、納入されたんだよ。だから、車内には、自動車会社の社員の指紋しかない筈なんだ。夜おそく、被害者は、納入された車に乗りたくなって、中に入った。ところが、犯人が、そこへ、入り込み、彼女を殴りつけ、暴行し、胸をはだけて、乳房の下を、ナイフで刺して、殺したんだ。その車から、当時、君の指紋が、検出されているんだよ。七年前には、これが、誰の指紋か、わからなかったんだがね」  と、十津川は、いった。  江崎の顔が、ゆがんできた。 「君は、横浜に行き、婦女暴行殺人容疑で、逮捕されるんだよ。暴行の上、乳房の下を刺すなんていうのは、どう考えても、変質者の仕業だな」  と、十津川は、哀れむように、江崎を見つめた。      4  江崎は、その日の中《うち》に、神奈川県警本部に、送られた。  彼が、七年前、二人の女を、暴行の上、殺していたというニュースは、マスコミが、大きく取りあげた。  十津川と、亀井は、そのニュースを、テレビで見守った。 「これで、うまくいくと思いますか?」  と、亀井が、きいた。 「若者たちにとって、江崎は、神様みたいな存在だったんだろう。それが、今や、落ちた偶像になったんだ。若いだけに、連中が、どんな反応を示すか、楽しみだね」  と、十津川は、いった。  江崎が、婦女暴行殺人容疑で、逮捕されたニュースののった新聞を、十津川は、留置されている若者たちに見せた。  最初、彼等は、戸惑い、警察の罠かも知れないと警戒していたが、毎日、新聞を見せていく中に、次第に、態度が、変って来た。  十津川は、焦らずに、彼等の様子を、見守った。  一人、二人と、脱落者が出て、彼等は、十津川の訊問に対して、答えるようになった。  次は、野崎裕子だった。  裕子も、江崎に感化されて、力で、社会を改革できるという妄想に取りつかれていたらしい。それで、江崎と、伊原の連絡役を引き受け、また、江崎を支援する杉野代議士との間も、取り持っていたのである。  だが、彼女の心酔していた江崎が、七年前、二人の女を暴行の上、惨殺していたことが、わかった。彼女は、江崎の覚醒剤取引きを手伝っていたが、これは、金儲けのためではなく、あくまでも、社会を改革するためだと思っていた。だからそれを、容認していたのだが、婦女暴行殺人となれば、別だった。それが、社会改革のためとは、いいようがないからである。  若者たちよりも、まず、女の野崎裕子が、口を開いて、喋り始めた。  やはり、川西が、覚醒剤を送っていた相手の一人は、野崎裕子だった。  彼女は、覚醒剤を売り捌《さば》き、その代金を、江崎に渡していたのだ。  清水刑事が、伊原の周辺を嗅ぎまわりはじめ、そのため、身の危険を感じた江崎の指示で、清水刑事の入院している病院に、忍び込んで、北斗星4号の切符を渡し、清水刑事をおびき出したのだ。  そのロビー・カーで、裕子は清水に、宅配便の伝票を渡すように説得したが、言うことを聞かなかったので、別の車両に待機していた男に、清水を殺させたというのだった。  その男は、NHKでの戦闘で、警官隊に射殺されてしまった。  野崎裕子は、伊原や、星野、木原の役割についても供述した。  野崎の供述をもとに、伊原を追及すると、彼も、江崎が金を集めるために、覚醒剤を売買していたことを証言した。  函館でもである。  若者たちは、まだ、迷っているようだったが、一人が、喋り始めると、あとは、雪崩《なだれ》を打つ形で、一斉に、訊問に、答え始めた。  彼等の中で、星野と木原は、さすがに、殺人の実行者だけに、最後まで、抵抗したが、それでも、遂に、江崎に命令されて、殺人を実行したことを認めた。星野が川西と塩谷を、木原が長井を射殺したのだ。  また、石川ひろみをひき殺そうとしたトラックの運転手、丸山を自殺に見せかけて殺害したのも、この二人だった。  それに、アフリカのブビアで、十津川を、砂漠に連れ出し、仲間と一緒になって、殺そうとしたことも、自供した。  これによって、十津川は、江崎周一郎を、覚醒剤の売買、殺人によって、再逮捕することが可能になった。  江崎は、神奈川県警によって、逮捕されているが、その手続きが終り次第、東京でも、送検することが、出来ることになったのだ。東京地検でも、これで、必ず、裁判で勝てるという確信を持ったようだった。 「これで、やっと、終りましたね」  と、亀井が、ほっとした表情で、いった。が、十津川は、 「まだだよ。長谷部記者は、いぜんとして、韓国で、治療を受けているし、石川ひろみも、まだ病院だよ」  と、いった。      5  江崎たちが、東京地検に起訴されてから、ほぼ一ヶ月後、正確にいえば、二十七日後に、長谷部記者は、韓国での治療を了《お》え、帰国することになった。  その途中、東京で、十津川に、礼をいいたいといい、わざわざ、成田行で、帰国した。  十津川は、韓国に行った亀井と二人で、長谷部を、昼食に誘った。三人は、韓国の思い出を語りながら、再会を、喜んだ。 「函館へ帰ったら、韓国滞在記の連載をすることになっています。署名入りの記事ですよ」  と、長谷部は、嬉しそうに、いった。  その長谷部を、二人で、上野駅まで送り、寝台特急・北斗星1号に、乗せた。ゆっくり、列車の中で休んで帰りたいといい、この列車にしたのである。  警視庁に戻ると、十津川は、韓国で、世話になった、ソウルと、釜山の警察に、礼状を書き、その中で、事件の経過がどうなったかを説明し、また、元気な長谷部記者に、会えたことも、付け加えた。  それから、更に、二日たって、嬉しい知らせが、届いた。  石川ひろみが、回復を示し、車椅子で、病院の中を、散歩できるようになったという知らせだった。  早速、十津川は、亀井と、病院に行くことにした。彼女が、どの程度、回復したのか、自分の眼で、確認したかったし、裁判になれば、彼女の証言も、必要になってくるに違いなかったからである。  病院に着くと、二人は、一階の待合室で、待っているように、いわれた。待っている間、十津川は、不安だった。車椅子で、病院内を歩き廻れるようになったといわれていたが、実際に、それを見るまでは、半信半疑だったからである。  七、八分、待たされて、エレベーターから、石川ひろみが、ひとりで、車椅子を動かして、出て来た時、十津川も、亀井も、大げさでなく、感動した。 「まだ、おめでとうといってはいけないかな。車椅子から離れてから、いった方がいいかな」  と、十津川は、傍に、行って、ひろみに、いった。  ひろみの顔に、微笑が、浮んだ。 「来月には、もう、立って、歩けるようになると、お医者さんが、いってくれました」 「そりゃあ、いい。若いから、回復しだしたら、早いんだ」  と、亀井が、いった。 「私、警部さんたちに、謝らなければならないことが、あるんです」  と、ひろみは、十津川を見上げて、いった。 「例の伝票のことでしょうな」 「ええ。私は、自分で、兄の仇を討ちたくて、隠してしまったんですわ」  と、ひろみは、いう。 「しかし、どうしてその伝票の人間を追えば、復讐ができると思ったのですか?」  と、十津川が、聞いた。 「私は、本当は、川西さんのことを、よく知っていたのです。彼が、覚醒剤を、取り扱っているというのを、聞いたときには、信じられなかった。真面目で、地味な暮しをしている人だったんです。覚醒剤を売って、儲けているわけではないと、考えたのです。そうなると、川西さんが、取り扱っている覚醒剤の代金は、どこか他の人のところに、いっているはずです。その人を見つけて、復讐をするつもりだったのです」  と、ひろみが、いった。 「しかし、危なかったですね。あなたも狙われていたのですよ。彼等は血眼《ちまなこ》になって、その伝票を、探していたのですから」 「何処《どこ》に隠したんですか?」  と、亀井が、きいた。 「何処だと思います?」  と、ひろみは、笑った。 「さあ、何処だろう? ずいぶん、探したんですがね」 「私は、前から、おっぱいが、小さいのに、見栄を張って、大きめのブラジャーを使っていたんです。そのブラジャーの裏側に、袋を作って、そこに、入れておいたんです」 「そいつは、面白い」 「でも、お医者さんや、看護婦さんが、持っていってしまいましたわ。でも、大切なものが、入っているのは、知らないと思います」 「今は、それを、われわれに、預けて貰えますね?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。もちろん」 「ありがとう。そうだ、お見舞いの花束を忘れていた。カメさんも、私も、安月給なので、小さい花束しか、買えませんでしたがね」  と、十津川は、いい、花束を、ひろみに、渡した。  十津川と、亀井は、安心して、病院を出た。 「もしかすると、ひろみは川西が、好きだったのかもしれませんね」  と、亀井が、いった。 「うん、川西は、今の若者にはめずらしい、ひたむきさをもっていたのだから、そんなところに、ひろみが、ひかれたのかもしれない。ひろみとしては、川西をかばいたい気持が、あったのだろう。だから、清水刑事に協力しようとしなかったわけだ。一方清水刑事としては、そんなひろみの態度を不審に思い、きっと彼女が、何か知っていると考えたのだろう」 「それを聞き出そうとして、清水刑事は、伝票を彼女に送ったのですね?」 「私もそう思う。それはそうと、あと一つ、やることがあるんだ」  と、十津川は、いった。 「わかっています。函館の清水刑事の墓に、事件が終ったのを、報告することでしょう?」 「ああ、そうだ。そのあと、カメさんと二人で、しばらく、温泉にでも行きたいね」  と、十津川は、いった。 単行本 一九九一年十一月 実業之日本社刊 〈底 本〉文春文庫 平成七年一月十日刊